第27話 エリク(後篇)
夜が来た。
ヘレナの声が、まだエリクの耳の奥で温もりを残していた。
外では風が止み、雲が厚く空を覆っている。家々の明かりが落ち、街は穏やかな闇に包まれていった。
どこか遠くで、誰かが短く声を上げたような気がした。
その闇の向こうに、不意に赤いものが揺らめいた。
仮設の作業小屋から、炎が立ちのぼったのは、多くが眠りについていた時間帯だった。
「火事だ!燃えてるぞ!」
「中にまだ人がいる!」
叫びが夜を裂き、炎の色が壁に踊る。
誰かが飛び込もうとして、仲間に引き止められる。
「無理だ!屋根が崩れるぞ!」
そのとき、エリクはもう走っていた。
桶の水を頭から浴び、燃え盛る入口へ突入する。
内部は灼熱の空間だった。天井から火の粉が舞い、柱が呻くように軋んでいる。
倒れていたのは若い男だ。朦朧とした目でこちらを見たが、すぐに気を失った。
エリクはその身体を抱きかかえ、再び走った。
梁が崩れ、背に焼けた破片が降り注ぐ。焼け焦げる匂いが立ちのぼった。痛みに世界が揺れた。
それでも、止まらない。
外に飛び出した瞬間、誰かの手が彼らを引きずり出した。安堵の声が響く。泣き出す者もいた。
エリクは背中と右腕に焼けただれた痕があることに、ようやく気づいた。
◇◇◇
火は消し止められた。
エリクの腕には新しい包帯が巻かれていた。
ヘレナは処置を終えると、隣に腰を下ろした。
「どうして、あなたは……」
口からこぼれた言葉は、問いかけの先を迷っていた。
答えを求めているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。そのすべてが、少しずつ混じっていた。
彼女の指先が、包帯の上をそっとなぞった。
まるで、言葉では足りぬ思いを託しているようだった。
「あなたは、誰かのために、自分を犠牲にできる人です」
怒りや悲しみだけではない、敬意も、誇りも、すべてが滲んでいた。
エリクは、ただ黙ってそれを受け止め、まっすぐに彼女を見返した。
声にはしなかったが、思いは、確かにそこにあった。
それでいい。これまでも、これからも。
誰かの命が、目の前にあったら……何度だって助けるさ。
◇◇◇
夜が明けた。
消えた炎の代わりに、陽の光が街を包んでいく。
煤の匂いを含んだ風が天幕を揺らし、その中で、エリクは筆を取った。
昨日の火事が、脳裏に焼きついていた。
ただ命を守らねばと思い、迷わず火に飛び込んだ。その衝動だけが、体に残っていた。
ヘレナの言葉が、自分の背中を押してくれるのを感じる。その言葉を、信じてみようと思った。
やけどの痛みを押さえながら、ゆっくりと筆を運ぶ。
土の匂いと潮の香りが、風に混じって鼻をかすめた。
大地と海のはざまに、この街の暮らしが根を張り始めている。
この場所は、もう他人の土地じゃない。
エリクは筆を置いて、記した文をまっすぐに見つめた。
この手紙を、郷里の家族に送ろう。
『ここが俺の家だ。ロツオンに骨を埋めるつもりだ。だから、親父たちも来てくれ』
手紙に封をすると、息がふっと抜けた。
それで、いいと思った。
外からは、荷下ろしの声が聞こえる。木を削る規則的な音。どこかで子どもが笑っている。
それらの響きが、確かに生が息づく印のように思えた。
エリクは、一息つくと、扉に手をかけた。
そしてまた、前へ進むために、扉を開けた。




