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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第26話 エリク(前篇)

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の八月。


 赤く染まった空の下、ロツオンの街路には、土と木の匂いがまだ濃く残っていた。


 街は日々、姿を変えている。

 昨日までは聞こえなかった職人たちの掛け声が、今日は新しい小屋の作業場に響いていた。

 資材を積んだ大船が、ひっきりなしに海岸へと着き、小舟に荷を下ろしては再び沖へと向かう。小舟は川を遡り、丘の上のロツオンへ荷を運んだ。

 東からの風に帆を揺らしながら、今日も一隻の船がロツオン沖に姿を現した。


 声を合わせて荷を運ぶ夫婦の姿が、エリクの胸裏に郷里の情景をよみがえらせた。

 痩せた畑に鍬を振るう父と母。口数の少ない、けれどよく笑う妹。


 忙しさにかまけて、ロツオンに来てから手紙一つ送れぬままだったと気づいた。



 そんな折、彼の視界に、一人の少女が傷ついた青年を支える姿が映った。

 少女の細い腕には、明らかに耐えがたい重さがのしかかっていた。男は蒼白な顔で、足元から血を流している。


「おい、そいつどうした」


 少女は怯えたように振り向き、言葉を探すように視線を彷徨わせた。その面差しが、残してきた妹に重なって見えた。


「足場から落ちて、杭が足に刺さって……」

「任せろ、俺が運ぶ」


 エリクは青年を背負い上げた。揺らさぬよう、足元の段差に気を配りつつ、慎重に進む。


 脳裏には再び故郷の姿がちらついた。

 今年の収穫はどうだったのだろうか。


 ◇◇◇


 ヴィンダル教会の予定地に張られた天幕を訪ねると、布の幕を押し分けてヘレナが駆け寄ってきた。


「その方、怪我を?」

「足に杭が刺さってた。腱まではいってないと思う」

「わかりました。こちらへ、横たえてください」


 彼女はすぐさま魔法を唱え始めた。掌から溢れる光が、柔らかく負傷者を包む。その横顔は、いつにも増して穏やかで、優しかった。

 やがて傷は癒え、青年を支えてきた少女にも、ようやく安堵の色が浮かぶ。

 二人は深々と頭を下げ、幾ばくかの寄進を申し出た。だが、ヘレナは微笑んでそれを断る。


「どうか、そのお金は明日の糧に」


 その言葉が終わるか終わらぬうちに、幕の外に人影が差した。


 エリクが振り返ると、そこにシグルドが立っていた。


 彼はヘレナと二人の様子を、黙って見ている。眉がかすかに寄ったように見えた。

 だが何も言わず、ただその視線をヘレナに向けたまま立っていた。

 ヘレナは、その視線に気づいたのか、ふと目を逸らした。

 どこか居心地悪そうで、けれど、ほんのりと安堵が混じっているように感じた。

 あんなヘレナは、見たことがなかった。


 ――あれは、自分に向けられたものじゃない。


 エリクは、心のどこかでそう結論づけていた。


 怪我が癒えた二人は礼を述べて去っていった。



「冬迎えの祭りについて」

 シグルドは間髪入れず、真面目な調子で語り出した。

 ヘレナも頷いてそれに応じる。


 だが、エリクの胸には、言いようのない鈍い痛みが広がっていた。

 ヘレナの目に、今まで見たことのない揺らぎが宿っていた。

 ずっとヘレナに想いを寄せていた。けれど、彼女が見ているのは、きっと、シグルドなのだろう。

 それだけのことだ。

 心のどこかで、とっくに悟っていたことだった。


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