第23話 フェレンツ
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の八月。
ティサ川から少し離れた林の中、葉の鳴る音に混じって、金属がぶつかる鈍い響きがこだました。
フェレンツ・ナジラキは、木洩れ日差す草地で、若者たちに剣の構えを教えていた。片手には楯、もう一方の手には稽古用の剣。陽の中で微かに汗を光らせながら、鋭く声を飛ばす。
「ニルス、そのままだと楯ごと吹っ飛ぶぞ。腰が甘い。重心を落として、足は半歩後ろに引け」
「う、うっす!」
ぎこちない動きの少年に、フェレンツはかつての自分を重ねていた。情け容赦なく少年の楯を自らの楯で突き、転倒させると、すぐさま別の一人に目を向ける。
「次はお前だ、イングリッド。構えを見せてみろ」
「……了解、です」
彼女は一歩前に出ると、杖を握り直した。その真剣な面持ちに、フェレンツは思わず口元をゆるめた。
◇◇◇
午後の作業を終えた広場の端で、カタリーナが刈り取った草を抱えながら手を振った。
「終わったの?」
「こっちもひと段落だ。飯、どうする?」
「いいわよ。一緒に食べましょ。今日のおかず、ちょっとだけ豪華だから」
「へえ。何かあったのか?」
「お肉、分けてもらえたの。ほんの少しだけどね」
彼女の軽やかな笑顔、泥に塗れながらも凛とした立ち姿、その気丈さに、フェレンツは不思議と惹かれていた。
女遊びに明け暮れてきた彼だったが、そこには自らに課した掟があり、その線だけは決して越えなかった。
けれど今、初めて――その線の内側に特別な誰かを見つけた。
フェレンツは宙の一点を見つめていた。
呼ばれて、カタリーナへと視線を戻す。
「……で、何を考え込んでたの?」
「ん?本でも取り寄せようかと思ってたんだ」
「本?あなたが読むつもりなの?」
「失礼な奴だな。戦術書だよ。魔法使いとの部隊運用、陣形、進軍のタイミング。ニルスやイングリッドたちをいずれ実戦に出すなら、俺たちの側にも準備がいる」
「……やっぱり、変な人ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「ふふっ、そういうところ、ちょっと好きよ」
フェレンツは一瞬、視線を逸らした。
風が吹き、草の香りが二人の間に流れた。
◇◇◇
夕方、ロツオンの小道を歩いていたフェレンツは、石組みの工事現場のそばで、オルカスト教会の司祭、ラズロー・シラジに声をかけられた。
「フェレンツ殿、少しお時間をいただけますか」
「どうした。改まって」
「……話を、聞いてほしくて」
二人は仮設の教会の裏手、まだ石の積まれていない、ひと気のない場所に腰を下ろした。
ラズローは一呼吸おいて語り始める。
「私はこれまで、正義とは揺るぎないものだと信じてきました。けれど、民の暮らしを見ていると、そう単純ではないと気づかされます。教義の言葉だけでは、どうにもならないことがあると……」
フェレンツは苦笑した。
「悩むのは、悪いことじゃない」
「……そうでしょうか?」
「ああ。悩みを知った人間にしか、悩む者を導くことはできない。偉そうな顔して説教するより、一緒に悩んでやれ。そっちのほうがずっと信頼される」
ラズローは驚いたように目を見開き、やがてふっと目を伏せた。
「……なるほど。そうかもしれませんね。ありがとう、フェレンツ殿」
ラズローが去ったあとも、フェレンツはその背中をしばらく目で追っていた。
年長のラズローが、自分に頭を下げて教えを請う――その迷いを隠さぬ姿勢に、思いがけず感服していた。
言葉が届いたのかどうかはわからない。だがあの司祭の肩には、迷いと責任が同じだけのしかかっている。
数日のあいだ、広場を通るたびに、教会の裏手で紙をめくるラズローの姿を見かけた。何度も書き直し、立ち上がっては歩き、また、腰を下ろす。そんな繰り返しが、答えを探している証に思えた。
◇◇◇
数日後。
建設が進むオルカスト教会の前で、ラズローは説教をしていた。
かつてのように聖典の一言一句を大声で読み上げるのではない。低く、落ち着いた声で、人々の顔を見つめながら、問いかけるように語っている。
フェレンツは、通りを挟んだ木陰からその様子を見ていた。
説教の内容までは届かないが、信徒たちが相槌を打ちながら熱心に耳を傾けているのはわかった。
「……これでいいのかもな」
剣を振り、道を切り拓くだけじゃない。
目に映る一人ひとりと向き合い、肩を貸し、声をかける――そうして生きていく。
通りの向こうでは、大工が槌を振るい、若者が木材を担いで行く。教会の前では、ラズローがまだ誰かと話し込んでいる。
それぞれの営みが、やがてこの街の礎になるのだろう。
フェレンツは歩きながら、それらを横目に見て小さく笑った。
夕暮れの影が折り重なり、人々の日々とともに街の姿を描いていく。




