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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第22話 答えのない街

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の八月。


 夕暮れ時、ロツオンの街にはようやく涼しげな風が流れはじめていた。

 この街では、何が正しく、誰がその正しさを定めるのか。答える者は、まだいない。


 工事の槌音が止み、人々がそれぞれの寝床や集会の場所へ戻っていく。

 そんな昼の喧噪が薄れかけたころ、一つの騒ぎが起こった。


「これは……母の形見なんです!盗られたんです!」


 語気を荒げたのは、移住してきたばかりのヴィンダル人の青年だった。

 鍛冶の熱にさらされた腕には、日々の労苦が刻まれていた。煤の匂いを纏った衣のまま、彼は広場でシグルドに立ちはだかった。


 その手に握られていたのは、蔓草の意匠が刻まれた銀の留針。

 彼によれば、それを持っていたのは、もう一方の手に掴んだオルカスト人の少年だったという。

 少年は、まだ十にも届かぬような年齢だった。衣の裾を握りしめ、言葉を返さず俯いている。やがて、絞り出すように呟いた。


「母ちゃんが……病気で」


 人々の視線が交錯する中、シグルドはひとまず少年を執政室へ連れ帰った。


 ◇◇◇


「教会に行ったんです」


 夜の仮設の執政室。蝋燭の灯に照らされた帳簿の脇で、シグルドは少年の話に耳を傾けていた。傍らにはヘレナも座っていた。机の上には、すっかり冷えたスープとパンが置かれていた。


「……でも、金貨三十枚って言われて。それで、売れるものを探して……」


 頬に残った涙の跡が、言葉より雄弁だった。


「ラズロー・シラジ司祭が提示した三十枚という数字は彼なりの良心であろう。ゼレニカでは五倍はかかる」

「でも、持っていない子にとっては、三十でも百五十でも同じ……です」


 ヘレナがぽつりと呟いた。

 目を伏せたその肩先は、かすかに震えていた。


 シグルドは机の上の留針を見つめていた。


 魔法では癒せぬものが、確かにあった。


 ◇◇◇


 少年は、ひとつ息を呑み、じっと立ち尽くした。


「これは贖いのためだ。罰ではない」


 少年に命じられたのは、半年間、留針の持ち主の家で働くことだった。

 シグルドの言葉に、少年は黙って深く頷いた。


 少年は目を伏せ、手のひらを強く握りしめていた。

 やがて、消え入りそうな声でぽつりと呟く。


「……母ちゃんのこと、お願いできませんか」


 シグルドは無言で立ち上がり、少年の肩に手を置いた。

 目を離さず、「任せろ」と低く短く告げた。



 ヘレナに頼めば、少年との約束は必ず果たされる。

 だが、それだけでは足りないと気づいていた。


 ◇◇◇


 その翌日。シグルドはオルカスト教会の司祭、ラズロー・シラジを非公式に訪れた。


 まだこの街に来て日が浅いラズローにとって、それは予想外の出来事だったのだろう。

 ラズローは、事件の詳細を聞くにつれ、次第に顔色を変えていった。

 一度だけ、書きかけの書類に視線を落とし、それから絞り出すように言葉を発した。


「……三十枚でも、彼には高すぎたのか。私は、善意で……」

 ラズローは小さく息をつき、背もたれに身を預けた。


 額を押さえ、低く続ける。

「ゼレニカでは百五十枚かかる。だから……だから、下げたつもりだったのだ。だが、それすら届かぬとは」

「わかっている」


 一拍置き、低く続ける。

「だが、それでも彼には遠かった」


 シグルドは、発した言葉を噛みしめた。

 善意と現実の溝は、浅くはなく、確かにそこに横たわっていた。


 おもむろに小袋を取り出し、ラズローの前に置く。


「金貨三十枚ある。これで母親を癒やして欲しい。私のことは内密に」


 ラズローが弾かれたようにシグルドを見やる。


「今後は、民の言葉を聞いてやってくれ。金貨ではなく、心で測るべきときもある」


 ラズローはしばし黙していたが、やがて軽く頭を垂れた。


「……わたしの信仰が、民の痛みに追いついていなかったのかもしれない……。努力しよう。それでも、できることはあるはずだ」


 頭を戻したとき、ラズローの瞳には強い意志が宿っていた。


 ◇◇◇


 夜の風が窓から入り、帳簿の角を揺らしていた。

 仕事終わりの書類を束ね、シグルドは灯火の芯を少しだけ絞った。


「我らが声を上げねば、誰がこの理不尽を変えるのだ」


 今は亡き師の言葉が、心の奥底から浮かび上がる。

 声を上げることで、誰かの沈黙を強いてはいないか。本当に、自分は“変える”側に立てているのか――。

 シグルドは、机の上の帳簿を見つめたまま、解けぬ問いにひとつ、息を吐いた。


 一人の少年が犯した罪。


 その背後にある理由と、誰もが抱える言い分。


 正しさと間違いとが、完全に色分けされることなどは、決してない。


 では、自分は何をもって街を治めているのか?

 そして、理不尽に立ち向かっているのか、それとも理不尽を別の形に変えているだけなのか。


 ゆっくりと立ち上がったシグルドは、窓の外を見やった。


 旗は〈常光〉に浮かび上がり、夜気に揺らめいていた。

 白地に濃青の十字、その上に黒き竜の紋。

 それは、答えの出ない問いを掲げるかのように、風に形を変え続けていた。


 シグルドは背筋を伸ばし、目を逸らさずにその旗を見つめていた。


 また、明日が来る。


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