第21話 四つの声
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の八月。
夜の帳がロツオンの街を包むころ、シグルドは西端の空き地で焚き火を熾した。
湯を沸かし、客人をもてなす準備を丁寧に整えていく。
ぎこちなくもあり、摩擦も大きいが、民会は週に一度、四名の民の代表を集めて開催されている。それでも、拾いきれぬ声がある。祭りの席では言えぬこともある。
ならば、火を囲んで、ただ話を聞いてみよう。それが、シグルドが出した答えの一つだった。
◇◇◇
最初に現れたのは、背中をやや曲げたヴィンダル人だった。真っ白な髭をたくわえ、どこかベングトを思わせる顔つきである。
「よいか?ただ話せばよいのか?」
「ここでは、誰もお前を咎めぬ」
薬草茶を差し出しながら促すと、男は火に手をかざした。
「……名は、オロフ・ベルイエル」
炎が白い髭を赤く染める。
「老い先短いからこそ、言っておきたいのじゃ」
オロフはしゃがれた声で途切れ途切れに口を開く。
「昔は、焚き火を囲んで祈ったものだ。……神々の加護を願ってな。作物の実り、死者の鎮魂、安産……」
「今は違うのか」
冷たい夜風が吹き込み、炎が形を変える。
オロフは茶をひと口すすり、しばし火を見つめる。杯を握りしめる手の皺は深く、炎が陰影を浮かび上がらせている。
「今じゃ、火を囲むと、嘆き声が先に漏れるようになった」
薪がぱちりと爆ぜ、すぐに収まる。オロフはその音を聞き届けるように、しばし口を閉ざした。
やがて、かすれた声が漏れる。
「焚き火の意味がわしにはもうわからん」
シグルドは言葉を挟まず、火の粉が消えていくのをただ見つめた。
◇◇◇
二人目は、くたびれた印象のオルカスト人の大工だった。
中年だが、身なりは質素で、肩を落として歩いてきた。
シグルドが薬草茶を勧めると、大工は首を振り、持参した酒袋を傾けた。
「領主様の前で無礼かもしれんが、飲んでもないと舌がもつれて話せん」
「自由にしてもらって構わん」
安い葡萄酒の香りが仄かに漂う。
「ゼレニカにいた頃は、昼間から呑んでた。仕事もなくてな」
浮かんだ表情は自嘲だった。
遠くで木材を組む音が響く。区切りが悪いからと、夜になっても作業を続ける者がいる。
「挙げ句に商売道具の刃に錆が浮いたりしてな。ひどいものだったさ」
酒袋の口に軽く唇をつけ、残りを確かめるように喉を鳴らす。
シグルドは、その仕草を黙って見つめていた。
「でも、ここじゃ違う。毎日が戦だ。仕事は溢れるほどある」
最後の一滴を舌で受け、名残惜しげに酒袋をしまう。
「商売道具もきちんと研がんとならん」
大工が頷くのを見て、シグルドは初めて問うた。
「後悔はあるか?」
「あるとも。あのまま燻っていたら、きっと何者でもなくなっていた。ここでなにかを残せるなら――」
男は両手を広げ、節だらけの指先をしばらく見つめ、やがて強く握りしめた。
「たとえ棟梁にはなれずとも、俺の手で木を組んだと胸を張れる気がする」
シグルドは頷いた。
それは、共感ではなく、確かな承認だった。
◇◇◇
三人目は、日焼けした若いヴィンダル人の石工で、イェンスと名乗った。
「村じゃ木工の真似事みたいなことばっかりで、でもゼレニカで城や教会見て、あんな建物作りたいって思いました」
薬草茶を受け取る若い指先は、すでに石工らしい硬さをまとい始めていた。
「ちょうどロツオンの募集があって、飛びつきました」
イェンスは耳の後をかき、笑みをこぼす。
「人手不足ですぐ拾ってもらえました。運ぶ削る積む、やることは山ほどあります。いや、やらされてるのかもしれませんけど」
白い粉に染まった手を見下ろす眼差しは、どこかはにかむかのようだった。
「村で道具は触ってたんで一通り使えますけど、石は勝手が違うし重いし、でもやはり木より美しいと思います。綺麗に石が割れた瞬間の手応えは格別で――」
そこで、イェンスはとめどない話に一息をつき、手の石粉を払った。
「今日、オルカスト人の棟梁に“仕上げが雑だ”と怒鳴られました」
笑いながら言ったその声は、どこか張りつめていた。
「そりゃ粗くもなりますよ。でも、生きるのに必死で、綺麗な角度で切る余裕なんてない。あの人たちには、わかってもらえないんです」
その声に怒りはなく、ただ、言葉にしておかなければならないという切実さだけがあった。
炎の明滅に目を細め、シグルドはまぶたを下ろした。
聞き集めた声が、胸の奥でひとつに絡み合う。
迷いも、悔いも、葛藤も――やがてこの街を支える石積みの一片となる。
◇◇◇
最後に現れたのは、若いヴィンダル人の夫婦だった。
「夫も私も、ゼレニカでは日雇いでした。重い荷を担ぐのも、木材を運ぶのも慣れていました。でも、鍬や鎌は、握ったことさえなくて」
女は炎の揺らぎを見つめたまま、言葉を探すように間を置いた。
「最初は草を刈るところからで、背丈ほどの草に足を取られました。石は男たちと力を合わせて運びましたが……途中から、あの大きな石運びのゴーレムが現れて」
女の口元にわずかな笑みが浮かぶ。「あの無言で歩く姿が、いつの間にかとても頼もしく思えるようになって」
「ようやく岩をどけ終えたところから、鍬を入れはじめたところです。けれど、畑はまだ形にもなっていません」
夜風が吹き、炎が一瞬しぼむ。
女は目を伏せ、お腹に手を当てた。
「……子を授かったんです」
男が無言で、その手を包み込む。
握る指先にそっと力が込められる。
「この子が育つ景色を、――作ります。草地が畑に変わるように、何もないところから必ず」
縮んだ炎が反発するように大きくなり、二人の影を遠くまで伸ばした。
それは、この街の未来が息づきはじめた証のようだった。




