第20話 ヘレナ
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の八月。
陽の傾くころ、ロツオンの丘には、木の十字架が風に軋んで立っていた。それは、まだ壁も屋根も持たないヴィンダル教会の全てであった。
ヘレナはそっと手を添えた。彼女にとっては、この十字こそが信仰の支えであり、誓いの標でもあった。
街では、建材を積んだ荷車が行き交い、人々の声が絶えない。
日除けをつけた市場の骨組みが完成し、酒場や宿屋の予定地にも杭が立てられた。
だがヴィンダル教会には、まだ骨組みの一つもなかった。
石工たちが人手不足に嘆き、大工たちが材料の配分を巡って言い争う日々の中、ヘレナの意思によって、まず街の共用施設が優先されたのだ。
彼女の衣は汗に濡れ、裾には泥がついている。頬は日に焼け、幼さの残る相貌に似つかわしくない疲労が刻まれていた。今日も、作業中に怪我した者や、熱に倒れた子どもを癒やし、助けを求める声に応じて街を駆け回った。特に、慣れない作業に従事することによる怪我人は、出ない日がなかった。
寄付金など望まれぬ場所だったが、シグルドからは「本来、癒しには代価が必要であることを必ず伝えるように」と厳命されていた。
「……意図はわかります」
理屈はわかっていた。癒しを無償とすれば、求める声は尽きぬ。それに応え続けることはできない、と。
シグルドという男を、彼女は尊敬していた。信念を貫き、正しさに殉ずる強さを持つ。だが、その正しさが、時に人を遠ざける。
彼女の心の中には、シグルドへの尊敬と共に、時折ふくらむ小さな苛立ちがあった。真面目で、頑固で、正しさを信じて疑わぬ男。
そんな彼が、貧しい者たちに冷たく映ることがあるのだと、彼女は知っていた。
そんな理と現実のせめぎあいは、思っている以上に身動きを奪う。
風の中で一瞬、背をあずけられる温もりを想像してしまい、彼女は慌てて首を振った。
「違う。シグルドは、決して冷たいんじゃない……」
頬の熱を隠すように、強く呟いたとき、遠くから船の帆柱が軋む音が、風に乗って聞こえた。
沖合いの波間に一艘の船が近づいてくる。帆には白地に金の十字と葡萄蔓、オルカスト教会の紋がはためいている。
しばらくして、その船に乗って来たらしい壮年の男性が広場に現れた。汚れ一つない白い僧服に身を包み、淡い金髪に明るい青の瞳を宿している。
木材を運ぶ労働者たちを背に、毅然とヘレナへ歩み寄ってきた。
「お初にお目にかかる。私、ラズロー・シラジと申します」
非の打ち所がない挨拶だったが、その完璧なオルカスト語と自信に満ちたその態度に、不思議とヘレナは棘を感じた。
「私はヘレナ。ロツオンの……ヴィンダル教会の者です」
「存じ上げておりますよ。貴女の活躍は、ゼレニカにも聞こえておりました。まこと立派なことです」
言葉だけは丁重だったが、やはりどこか隔意を覚えた。
「この街はまだ整備の途上です。私たちだけでは全ての支援が行き届きません。よろしければ、支援を必要とする者すべてに……」
言い終わる前に、ラズローは軽く笑った。
「それは、我らの使命に反します。信徒の中に困窮する者がいれば、我らは手を差し伸べます。ですが――我らはあくまで、オルカストの民を支えるために参ったのです」
それ以上、何を言うべきか。声が喉に留まった。
見下されたのではない。だが、線を引かれた。
その線の向こうへ、彼は迷いなく歩いていく。
それは彼女にとって、信じていたものへの声なき拒絶だった。
白い僧服の背が、広場を挟んでオルカスト教会の建設予定地へと向かう。そこで彼は職人たちとしばらく話した後に、続けざまに指示を飛ばし始めた。
◇◇◇
夜が深まるころ、ようやく自分と向き合う時が訪れた。
テントの灯の下、日誌を綴るヘレナの胸の奥に、何か取りこぼした感触だけが沈んでいた。
この街にはまだ、名もない子どもたちがいる。病に苦しむ母がいる。言葉の通じぬ不安に怯える老いた民がいる。
彼らすべてに等しく手を差し伸べる。
吹きさらしに立つ十字架にそれを誓った。
だが、掬っても掬っても、何かが砂のようにこぼれ、取り残されていく。
――否、自分が取り残すのだ。
けれど――そう思ってしまう自分が、あまりにも独りよがりなのではないか?
そのとき、気づけばエリクの顔が浮かんでいた。しばらく彼の姿を見ていない。怪物退治に、イングリッドやニルスたちの訓練――お互いにやるべきことが多いことはわかっている。
それでも、彼の太い腕と、大きな背中が、今は恋しかった。ぶっきらぼうな言葉と、どこか無邪気な笑顔で、背中を押してほしかった。
「会いたい、なんて……」
小さな声は、夜気の中に紛れていった。
外では風が吹き、布がかすかに揺れている。
ただ、眠りの静けさだけが、今夜も変わらず、ロツオンの丘を包んでいた。




