第2話 都市は水に始まる
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の三月。
叙勲を受け、ゼレニカ城を退出したシグルドは、仲間たちと別れ、そのまま官僚庁に向かった。
ゼレニカ城の周辺には官僚庁、軍施設、オルカスト教会など、アルマーディ公国の主要施設が並ぶ。当然ながら、シグルドの信仰するヴィンダル教会はここにはない。
歩みを進めるにつれて、城に満ちていた晴れやかな余韻が背後へと薄れていく。
「さて……協力を仰げ、とは言われたが」
独りごちつつ門をくぐる。
整然とした事務机の並びと、筆記の音だけが空間を支配していた。淡い金髪と明るい瞳を持つオルカスト人が闊歩するその中にあって、黒髪のシグルドは異様に浮いて見えた。
ほどなく、官僚長ベネデク・シャーンドルの執務室に通される。
壁一面を埋める書架。窓辺には測量具と広げられた地図。机は書類の山に覆われていた。
奥に座す初老の男は、整えられた口ひげの奥に穏やかな笑みをたたえていた。
「ようこそお越しくださいました、ロツオン卿。叙任されたばかりにて、その呼び名にはまだお慣れではございますまいが」
「……構わん。いずれ慣れねばならぬ名だろう」
ベネデクは小さく笑い、椅子を勧めた。
「それでは、早速本題に移らせていただきます。都市建設におきましては、兵力の配置や作物の育成に目が向きがちでございます。しかし、我らオルカストには古くからの格言がございます。“都市は上下水道より始まる”と」
「……要は、水と糞、ということか」
「言葉は無骨にございますが、要点を突いておられます。物事の根幹とは、えてしてそういうものにございます」
ベネデクはそこで語気を落とした。
「ただ、ロツオンにはティサ川がございます。川辺の街に下水など無用と申す者もおりますし、“貴族の道楽”と嘲る声も少なくありません。しかしながら、衛生面での弊害は実際に多いのでございます」
シグルドは記憶をたぐる。
このゼレニカ、二万を超す人々を抱える都市が、比較的臭わないのは下水道のおかげだ。その暗渠は複数の盗賊ギルドがひそかに争う巣窟でもある。腐臭が石壁に染みついた恐ろしい地下の迷路。
一方で、小さい村や街には、そのようなものがあるはずがなかった。とある村では、冬でも鼻を刺す腐臭が漂い、路地の水たまりは排泄物と腐肉の残滓で濁っていた。
「……ああ、覚えている。寒風のなか、腐臭が染みついた路地を歩いた。――痩せた子どもが、膝を抱えて咳をしていた」
言葉にした途端、胸の奥に刺さっていた寒さが甦った。
「あれが正しいとは思わん」
ベネデクは満足げに頷き、話を続ける。
「上水道の整備につきましては、いかようにお考えでいらっしゃいますか」
「現地を見てから決める。湧き水があるならそれを使う。ティサ川の水を汲むしかないのなら――、水汲みは労力を食い、水質が悪ければ病も流行る。水は命そのもの――軽くは扱えん」
ゼレニカでは、近隣二箇所の湧水からザードルフ帝国様式の水道が引き込まれ、城や官僚庁など主要地区に水を供給していた。さらに数多の石組みの井戸が掘られ、人々は絶え間なく桶を下ろして清水を汲んでいる。その規模に、公国の権勢の大きさを感じずにはいられなかった。
だがロツオンで同じことができるのか。水道を引くことは夢としても、街づくりと並行して井戸を増やすとなれば――気の遠くなる工事となろう。
「さすがでございます、ご理解が早い。将来的には、皮なめし職人や染物職人が集まり、川の水質が悪化する恐れがございます。加えて――」
ベネデクは窓の方を振り返る。
「ロツオンはティサ川の河口に位置します。ここゼレニカのカルノ川と同様に、潮の干満により河口に逆流が生じます。川は多くを与えてくれますが、それを制するのは容易ではございません」
その声音には、単なる水利を超えた含みがあった。
街を一から作る、それは、ただ家屋を並べることではない。
まずは川の気まぐれと向き合い、水を整えること。
そして、人が生きていく土台を整えねばならぬ。漠然と描いていた未来は、砂上の楼閣だった。
「助言に感謝する。向き合わねばならぬ課題だな」
窓の外、カルノ川は春の陽を映してゆるやかに流れていた。
その穏やかさが、先ほど語られた厄介さをいっそう信じがたくさせる。
ベネデクはゆっくりと姿勢を正し、笑みを浮かべた。
「ゆえに、まずは上下水道の整備に着手するため、適任の測量士をご紹介申し上げます。将来的には港の計画にも欠かせぬ人材となりましょう。タマシュ・ディボシュ――癖はございますが、その腕は確かでございます」




