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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第19話 メルタ

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の七月。


 ティサ川からの湿った風が、ロツオンの空気に生温い感触を残す。建設途中の街に、木槌の音と職人たちの威勢のいい声が響いていた。

 埃と木屑の匂いの奥に、都市の胎動を思わせる気配が漂う。



 メルタは、見覚えのある背中に目を留めた。小柄な男。麻の服から伸びる腕と、ゴツゴツとした手。あの手が意外と器用に動くことを彼女は知っていた。


「トルド」

 呼ぶと、その男はばつの悪そうな顔でこちらを振り返った。


「……やっぱメルタだったか」

 トルドはゼレニカで一度、スリで捕まった男だった。だが、捕まったのが一度だけというだけで、裏ではもっと何かやっていると、誰もが疑っていた。そんな男が、どうしてここに。


「何で来たの」

「真面目にやり直すんだ。ここで」

 その声音に嘘はなかった。メルタの眉間に皺が寄った。


ゼレニカでは居場所を得られぬ男――だからこそ、ロツオンに来た。


「ここに来る前に身元の確認があったはずなのに、あんた、よくくぐり抜けたわね」

 メルタはトルドを睨みつけ、顎をぐいと上げた。

「でも、この街でもふざけた真似をするようだったら、ただじゃおかないよ」

「信じてもらおうなんて思ってないよ。ただ……生まれ変わりたい。そう思っただけだ」


「急ぐ」とだけ言い残し、トルドは足早に去った。



 その背中を黙って見送りながら、メルタは右のピアスを撫でる。

 自分にトルドを非難する資格があるのだろうか。


 心には、ゼレニカを発つ前に、エステルから言われた言葉が反響していた。

 エステル――彼女がいなければ、今の自分は影すら持てなかった。師匠であり、育ての親であり、そして、今なお心の拠り所だ。


「定期的にロツオンの情勢を知らせろ。それ以外は好きに生きて構わない」

 その声は冷ややかで、命令なのか試練なのか、それともただの突き放しなのか、メルタには測りかねた。


 なぜエステルはあのようなことを命じたのだろう?そして好きに生きるとは――。

 こんなことを命じられたのは、初めてだった。

 自分に枷がはめられていること――それがエステルからのものであれば受け入れよう。

 だが、その枷についた鎖がどこへ続いているのか見えないことが、心の底に、鈍く引っかかっていた。


 ◇◇◇


 数日後、トルドの様子を見ようとメルタが足を運んだときだった。


 建設中の高所で、一人の男が足を滑らせた。転落は免れたが、掴まった柱が折れそうになる。

 動き出したメルタの足が、次の瞬間、地面に縫い付けられる。

 一つの影が跳躍し、滑り落ちる男を抱きとめ、二度三度と建材にぶつかり衝撃を削ぎながら、地面へと落ちていった。トルドだった。


「ばかっ……!」


 気づけば、怒鳴るように叫んでいた。

 木槌の音が途絶え、建材が乱暴に放り出された。怒号が渦巻き、あたりは騒然となる。


 メルタは地面を蹴って駆け寄り、膝をついてトルドの肩を抱き起こした。震える指先が、彼の頬に触れ、その温もりを確かめた。


「メ、メルタか……」

「しゃべるな!足……おかしな向きになってる。それに血も出てる」


「ヘレナ様、こっちだ、早く来てくれ!」

 背後から、人が駆けつけてくる音が聞こえた。


「……俺……少しは、変わった……か……?」

「……っ」


 喉に何かが貼りついたように声が出ない。そのもどかしさと彼の姿が胸を締め上げていった。


 ◇◇◇


 メルタは、フェレンツ、エリクとの数日にわたる探索行を終え、数日ぶりにロツオンに戻った。

 その夜、彼女は黒い瞳に炎を映しながら、焚き火の前で一人佇んでいた。


 ティサ川の対岸で、土に埋められた焚き火跡と刃物で払われた枝を見つけた。

 報告を受けたシグルドは、ロツオンの東――カールドヴァールのバリント・アルマーディ伯爵の手の者だと判断した。メルタもそれに頷いた。隠し方が手慣れていた。

 エステル、バリント伯――幾多の視線が、この街に突き刺さっている。ここは、ただの開拓地じゃない。



 焚き火の音に混じって、誰かの笑い声が遠くから聞こえる。大鍋に作られた夕食が一人ひとりに配られていく。うまそうな匂いが鼻の奥をくすぐり、声のざわめきとともに夜に溶けていく。人々の暮らしが、確かに根を下ろし始めている。メルタは、そう感じていた。


 でも、それは自分とは交わらない遠い風景のようにも思えた。

 探索中は外していたピアスを取り出す。

 浮かんだのは、トルドの不器用な背中だった。後ろにいたはずのその背中が、いつの間にか自分の前を走っているように思えた。


「生まれ変わりたい」――トルドの言葉が胸のうちに響く。



 ピアスにそっと触れる。


 あたしも……変われるのかもしれない。どんな歩き方でも、自分の足で。


 ピアスを耳に戻し、焚き火の熱を頬で感じた。


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