第18話 ジョフィア
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の七月。
魔法とは、式である。
命じれば崩れ、計れば積み上がり、刻んだ文様に魔力が流れ込めばそれに応えてくれる。
胸に大ぶりの紅玉を埋め込まれた石の巨人は、まだ眠ったまま、開拓地の外れに横たわっていた。複雑な文様が描かれていたが、左腕だけが空白のままだった。
「これだから、面白い」
風と虫の声が響き、草の匂いが漂うその場所で、ジョフィアは挑むような笑みを浮かべる。
この十日間、彼女はシグルドやヘレナすら遠ざけて作業に没頭していた。
赤みがかった金色の髪は汗と土にからまり、寝不足の影が顔に濃く刻まれていた。それでも、青い瞳だけは鋭く澄んでいた。
魔導書を片手に、夜も昼も、手を動かし、式を組み直し続けた。
シグルドがどう思うか。街がどう変わるか。自分がどう見られるか。
時折、遠巻きに丘の上で誰かがじっとこちらを見ている気配もあった。
だが、それらは没入している間、どうでもよかった。
形になりそうな予感と、まだ遠い確信。その狭間にある興奮が、彼女を突き動かしていた。
そして、その時は訪れた。
文様の光が命の鼓動のように石の胸元を伝い、ゆるやかに紅玉へと昇った。
一瞬、時が止まったかのように、あたりの風も虫の声も凍りついた。
やがて、地の底から響くような低い唸りが広がり、巨人の身体がわずかに震えた。土がぱらぱらと落ち、地面がかすかに沈む。
ゆっくりと、目を開けるように立ち上がる。高さ三メルテーク(3m)。目の位置に埋め込まれた文様が、淡い光を放った。
「起きた、ね」
その瞬間、ジョフィアの左手にあった魔導書が、灰となって風に舞った。先人の知識が込められた一冊。ストーンゴーレムに命を与える代償だった。
「さあ、働いてもらうよ。ロツオンのために」
その言葉が思わず口をついたことに、自らも驚いた。
なぜ「街のため」と、口にしてしまったのだろう。
シグルドやヘレナたちの姿が脳裏をよぎる。焚き火を囲んで笑う顔、汗を流して働く背中。
自分も、すでにその輪の中にいる――その居場所を求めていたのは、ほかでもない己の心だった。
思いがけぬ結論に、自分自身が少し怖くなる。けれどその怖さは、不思議と心地よい。まるで、自分の存在が魔法かのよう――汲み尽くせぬ、不可思議の塊。
◇◇◇
燃え尽きた魔導書の灰が風に舞うさなか、その中心に立つジョフィアと、音を立てて動き始めた石の巨人。
農学者ペテル・ナジは、草の茂る丘の上からその光景を見届けた。
「お見事でしたな。ジョフィア殿、とお呼びしても?」
ペテルが歩み寄り、そう声をかけると、ジョフィアは肩をすくめた。
「好きに呼んでいいよ。……わたし、もう姓も捨てたし」
何気なく発せられた言葉に、ペテルは一瞬だけ言葉を失った。
彼は農業に生きるオルカスト人だ。土を得る誇りも、名を失う重みも、そして姓を捨てることの意味も、よくわかっている。
だが、いま必要なのは詮索や慰めではない。
「牛よりも馬よりも、この一体こそが、開拓の力になるでしょうな」
「糧も食事も不要。休みもいらず、命じられた務めを果たし続ける。無口な働き手」
ジョフィアの言葉を聞くうちに、ペテルは温め続けていた工事の構想を思い出した。あれを、開墾や干拓以外に、川の護岸に使えないだろうか?
春に氾濫するティサ川。何度も失われた作物と住まい、人の命。
「このゴーレムを川の護岸工事に、使えぬかと考えておりましてな」
ジョフィアは眉をひそめる。
「洪水対策、ってこと?」
「そうです。護岸を高く築き、川底をわずかばかり浚渫しておけば、水の勢いを殺せるのではと。その先には湿地の干拓も見据えています」
「……理屈では可能。ただし、川底を浚うのは慎重にやらないと、水流の変化で別の場所が危険になる。地形と水の流れの見極めが要る」
「それでも、やる価値はある……そう思うのです」
ペテルの言葉に、ジョフィアはしばし沈黙し、やがて口元をほころばせた。
「優先すべきは開拓だけれど、川底の形や流速を読み、浚渫の順番を組み立てるのは面白い課題かもね。タマシュにも相談してみる。それに、港を欲しているシグルドには、きっと朗報になる」
ペテルはその微笑に、小さな希望の芽を見た気がした。
◇◇◇
「前にも話したけれど、研究所を建てたいんだ」
夕暮れの広場で、ジョフィアはシグルドに告げた。
「特別な設備はいらないけれど、広さは欲しい。転移陣と書庫、研究室、きっと物が増えるから。……あ、北向きで、昼でも影の落ちる場所がいい」
「ゼレニカとの行き来の高速化、か。たしかに大事だと認識している」
「それに研究したいことが、山ほどあるのよ。もっと街の役に立つ魔法。……そういうのに、興味が尽きないのよ」
シグルドは目を瞬き、一拍遅れて問い返した。「街のために?」
「……うん、まあ、それもあるかな」
もっと素直に言えたならと思う。
“ここを私の、帰る場所にする”
けれど、それはまだ、胸の奥にしまっておいた。
夕日の橙色が、心の奥の温もりと同じ色をしていた。




