第16話 旗と芋と夜の声(前篇)
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の七月。
ティサ川を見下ろす小さな高台に、一つの旗が掲げられた。
白地に濃青の十字、その上に鋭い牙の黒き竜。
ゼレニカ出港前に官僚長ベネデク・シャーンドルから届けられたそれは、ロツオン卿シグルド・ストゥーレの旗だった。
街の中央、据えられた旗竿の前で、シグルドは跪いて短く祈った。
その旗は、誇りであり、願いであり、始まりだった。
「この旗の下に集いし者が、日々を生き、地に汗を流し、実りを得んことを」
人々は短く祈りを重ねた。だが、その声はまばらであり、どこか緊張を孕んでいた。ヴィンダル人とオルカスト人。ひとつの街に集った彼らは、混じり合ってはいなかった。
「灯りが増えたな」
見上げると、淡い灯が昼の光に溶け、その下にフェレンツの姿があった。
掲げられたのは旗だけではなかった。
〈常光〉をかけた灯箱が、広場から門へ続く街路にも据えつけられていった。
昼の陽射しの中でも、その輝きは地面を縁取り、影の輪郭を崩していた。
夜になれば、広場から門へ伸びる通りまでを明るく照らし、夜の街並みにその道筋を浮かび上がらせるだろう。
旗と並び立つ灯――それは、揺れる心を抱えた民を照らす光だった。
「人が火を焚く理由の一つは闇が怖いからだ」とシグルドは腰を上げて言った。「だが……」
「明かりがあれば安心する。でも、安心したからといって、皆が仲良くなるわけじゃないってことか?」
フェレンツの言葉に、シグルドは広場の子どもたちを一瞥し、頷いた。
移住してきた石工や大工たちは、早速、手を動かしていた。
だが、ヴィンダルの子どもたちは泥遊びに夢中になり、オルカストの子どもたちは少し離れて石を積んでいた。互いを見ても、声はかけなかった。
◇◇◇
夏の日差しが照りつけるロツオンの郊外、石壁の外で、フェレンツ、エリク、メルタの三人は、新たにロツオンに加わった若き冒険者ニルスとイングリッドの一団を前にしていた。
「こいつらには、まず地形を覚えてもらうとするか」
ニルスは剣の素振りを繰り返し、すでに汗が浮いていた。イングリッドは姿勢を保っていたが、右手は左腕を握ったままだった。他の七名もまた、視線や手のわずかな動きに、それぞれの心の揺らぎが表れていた。
「いい?まずは黙って、あたしたちの後ろについて来て。丘とかぬかるみとか、場所を覚えるだけでいいから」
そう伝えるメルタの声には、不安の色が滲んでいた。
「了解っす。死ぬのは嫌なんで、全力でサボりません!」とニルスは笑った。
その軽さに苦笑を浮かべつつ、フェレンツは空を仰いだ。「今日も晴れだな」
「晴れが続きすぎて、かえって心配になる」とエリクが応じる。
「空の下じゃ、皆が同じ旗を仰いでるように見えるんだがな」
フェレンツは誰に聞かせるでもなく、空へ向かってつぶやいた。
◇◇◇
その日、シグルドは午後の強い日差しの中、農学者ペテル・ナジ、測量士タマシュ・ディボシュとともに開拓予定地を見て回っていた。
ペテルは、官僚長ベネデク・シャーンドルの伝手でゼレニカから招いた学者だった。
穏やかな笑みを絶やさぬ温厚な人柄であり、肩にかけた布袋には、長年使い込まれた測定具と、幾度も手を加えられた地図が収められていた。
多くの学者が未開の地への招聘に難色を示す中で、「こういう土地にこそ学びがある」と笑って即答したのが、この壮年のオルカスト人であった。
ティサ川沿いの小高くなった部分には、背の低い草が生い茂り、その間を縫うように細い獣道が走っている。
ペテルは草をかき分け、土を一握りすくって掌で転がした。陽に当たった表土の下から、しっとりと湿り気のある層が覗いた。
「ここはいい土地ですな」ペテルは笑った。
「土が締まっておる。川水の染み込みも少ない。踏めば足裏に粘りが残る。いい畑というのは、こういう地肌をしておるもんです」
彼は掌の土を払いつつ続けた。「小麦でも豆でも、きっちり収穫できます。秋の種まきにできるだけ広く間に合わせたいですな」
「こちらの背後の湿地はどうだ?」と、シグルドは尋ねた。
タマシュがその方向を見やる。
「水を捌き、地面を少しずつ嵩上げしていけば……。じわじわ攻めるしかないじゃろうな」
「こちらは、来年のための地均しってところか」
「ええ、そういうことですな」と、ペテルは頷く。
――新しい旗と新しい灯。その下で、人々はまだ脆い足取りのまま、それでも次の季節へ歩みだしていた。




