第15話 交わらぬ視線、消えていく言葉
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の七月。
夕暮れの光の中、ロツオンの石壁がくっきりと現れた。頼りなくも、帰り着くべき場所の印のように。
ゼレニカを出港して二日。シグルドたちの乗った三隻の船は、ようやくロツオン沖に姿を現した。
だが、安堵に浸る暇はなかった。
ロツオンには、まだ港がない。
ティサ川と河口近くの群島に囲まれたこの海域は、浅瀬の水深さえ正確に把握されておらず、乗り入れるにも躊躇せざるをえない。
船上では、乗組員たちが帆を巻き、麻縄を引く。入植者たちと荷の一部は小舟に分乗して岸へと運ばれ、シグルド、ジョフィア、ヘレナの魔法の光が甲板を照らしていた。
やがて、船首から伸びた太い麻縄が岸へと引かれ、浜辺には丸太と板が並べられた。潮が満ちる日没後を見計らい、船を浅瀬へ寄せて係留する算段である。
浜辺には、先住のヴィンダル人たちが集まり、船の固定に加わっていた。
大船団の到来に戸惑いを隠せぬまま、彼らは麻縄を握り、時おりオルカスト人たちの方へ警戒の目を向ける。
一方、オルカスト人もまた、色褪せた粗布の衣をまとった彼らを冷ややかに見返していた。
両者の気持ちがわかるゼレニカから来たヴィンダル人たちは、沈黙を選んだ。
まもなく彼らは麻縄を引き始めた。だが掛け声は波にかき消され、かみ合わぬ身振りだけが残った。
砂に落ちた縄が揺れ、その瞬間、波間に散った掛け声の名残が漂った。
◇◇◇
作業が一段落し、マルトン・バラシャと作業の進捗を確認し、短く言葉を交わした後、シグルドは人々の前へと歩み出た。落ち着いた声で告げる。
「上陸作業、ご苦労だった。今から食事の準備に入る。しばし身体を休めてくれ。ただ……今日はもう一仕事ある」
周囲を見渡して、一拍置く。
「半数はロツオンへ上陸し、野営の準備に入ってくれ。そこが、入植者諸君の当面の住処となる。残りは、潮が引いた後の荷下ろしを手伝って欲しい」
その言葉に対する反応に、違和感を抱いた。
少しして、それがオルカスト人の反応の鈍さゆえだと思い至り、すぐさま同じ内容をオルカスト語で繰り返す。
先ほど麻縄を引くときの掛け声の乱れが、頭の奥で形を結んだ。
後悔を噛み締めつつ、シグルドは顎を上げ、先住のヴィンダル人たちと、新たな入植者たちの間へ歩み出た。そして互いを向き合わせ、促すように言葉を放った。
「ここでは誰もがロツオンの民だ。違いはあっても、互いに助け合うことを忘れずにいて欲しい」
二つの言葉で繰り返すが、誰もそれに応えず、その響きは、水のごとく浜辺の砂に吸い込まれていった。
交差する視線が、言葉より深い隔たりを浮かび上がらせた。
オルカスト人を連れてきたのは早すぎたのか。その疑念が、とぐろを巻いて襲いかかる。
合流したメルタが、その様子を見てシグルドの肩に身を寄せて囁いた。
「ねぇ、これなんとかしないと、まずいよ」
その思いはシグルドも同様だった。彼は仲間たちとマルトンを呼び寄せ、焚き火を囲み、即席の会議を開く。
火越しに顔ぶれを見渡し、「おそらく、もっと早く気づくべきだった。案があれば遠慮なく言って欲しい」と告げた。
「混成の作業班を作って、一緒に働かせれば慣れるかもな」エリク。
「だが、無理強いは危険だ。拙速は溝を深めかねない」フェレンツが眉をひそめた。
「みんなで食べたり飲んだりすれば、少しは打ち解けるんじゃない?」とメルタ。
マルトンは苦い顔で淡々と答えた。「仲の悪い者を同じ卓につければ、毒にしかなりません」
「言葉の共有から始めるべきだと思う」ジョフィアが続ける。
「ゼレニカのヴィンダル人なら多少は話せるけど……」メルタが言い淀む。
と、マルトンが手を挙げた。
「各集団から代表を選び、会議の場を設けるのはいかがでしょう。通訳は皆様に担っていただく」
「顔を突き合わせても、言い合いになるだけじゃないか?」フェレンツ。
「それでも、話さねば距離は永遠に縮まりません」ヘレナが返した。
やがて案が出尽くしたあと、自然と視線はシグルドに集まった。信頼と責任が、彼の内で交錯した。
言葉の壁を軽んじた過ちは、二度と繰り返せぬ。彼は覚悟とともに口を開いた。
「決めた。民を四つに分ける。先住のヴィンダル、新たに来た者たちはオルカストをひとつに、ヴィンダルを職と農に分ける。そこから一人ずつ代表を選び、我々と共に民会を開く」
焚き火の火が弾け、仲間たちの視線が揺れた。頷く者もいるが、訝しむ視線を向ける者もいる。
「そんな領主、聞いたことないよ」メルタが疑問を呈する。「みんなに意見を聞いて、みんなで決めるだなんて」
「昔、そういう国もあったとは聞く。王を持たない国」ジョフィアが博識を披露する。
「すべてを委ねるつもりはない。ただ――互いの声を聞き合う場を持つ。それが、ロツオンの民である証になる」
「融和……ですか」マルトンが月を見上げて呟く。「遠い月のようなものです」
その言葉が、ロツオンがこれから越えねばならぬ険しい壁であると、シグルドは予感した。
◇◇◇
気づくと、夜が深まり干潮を迎え、ただ荷を担ぐ影が途切れなく続いていた。
斧、鋤、鉈、衣類、靴、食料、油、果ては牛まで――すべてが新たな生活の礎だった。
月明かりがいっそう濃くなり、人々の背を照らした。濡れた麻縄が滑車をきしませ、音は潮騒の奥に溶けていった。




