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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第14話 ゼレニカにて――ヴィンダル教会

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の六月。


 ゼレニカの北側、ヴィンダル人が多く住む一角に、その教会は堂々と姿を保っていた。


 木造の聖堂は、祈りの響きを包み込むかのように、幾重にも屋根を重ね、天を指す三つの尖塔が威厳を放っている。

 中からは香の匂いが漂い、聞こえてくる祈りの声は敬虔さに満ちていた。


 すべての信徒を迎え入れるように開け放たれた扉をくぐり、シグルドはゆっくりと歩を進めた。

 その後ろには、黒髪を短く整えたヘレナが続く。


 ここゼレニカのヴィンダル教会は、宵月の巫女――ヴィンダル教会全体を束ねる唯一の存在が座す、いわば総本山である。


「……変わらないな」

 小さく、シグルドが呟いた。


 すり減った木の椅子、壁にかけられた編み細工、祈る人々、そして彫り込まれた樫の祭壇。まるで時間が止まっているかのようだった。


 その祭壇の前に立つ自分の姿に、ふと師の影を重ねた。

 祈りを掲げる背は、若き日のシグルドにとって世界そのものだった。

 理想にすべてを賭し、信仰と熱情を宿したその眼差しは、炎のように烈しかった。

 シグルドにとって、彼は育ての親であり、信仰の導師であり、戦技の師匠でもあった。彼の手で、シグルドは僧侶にして軍人へと鍛え上げられた。


 今はもう、この世にはいない。



 無意識に握った拳をほどき、手のひらを見つめた。

 若い司祭に黙礼し、礼拝堂を通り抜ける。


 ◇◇◇


 奥の会議室に向かうと、柔らかな足音とともに宵月の巫女トーラ・ユレンシェルナが現れた。


 灰色の髪、時を越えた知恵と慈しみが宿った瞳。修道衣の裾がわずかに揺れ、足を止めた姿には穏やかな威厳があった。


「ようこそ、シグルド。そして、ヘレナ」

 その声に、二人は丁重に一礼を返す。



 やがて司祭たちが揃い、細長い木の机を囲んで会議が始まった。


 シグルドは立ち上がり、短く息を吐いたあと、口を開いた。

「私は、ロツオンにヴィンダル教会を設立したい。そして同時に、オルカスト教会も建てるつもりだ」


「オルカスト教会を?あの地に?」

 ざわめきの中、年配の司祭の一人が眉をひそめる。


「かの地はヴィンダル人のそなたが治めるヴィンダルの地。なぜ異なる教会を建てねばならぬのか。我らの伝統を汚すことになりはせぬか?」


 その問いに、シグルドは動ぜず答えた。

「共に生きるためです。ロツオンは、オルカスト人とヴィンダル人が共に暮らす都市にする。そのためには、互いの祈りの場が必要です」


 沈黙の中、トーラは何も言わなかった。

 まなざしは柔らかく、けれどその奥を読み取ることはできない。



「……そしてもう一つ、新たに立てるロツオンのヴィンダル教会は、ヘレナに任せたい」


 ヘレナが立ち上がり、軋む床を踏みしめて深々と頭を下げた。


 シグルドから事前に打診を受けていた。自分ならば無理を委ねられると考えたのか、その思いは胸をかすめた。だが、それ以上に彼の信頼を感じていた。わずかな不安がよぎる。それでも、彼女の足は揺るがなかった。


 司祭たちの一部が頷き、また一部が驚いた顔を見せる。


 ヴィンダル教会では、巫女を別とすれば身分の上下はない。ものを言うのは年齢、すなわち経験と加護の深さだ。

 加護の深さで言えば、シグルドもヘレナも、数多の司祭の中でも五人に満たぬ高位に並ぶ。若くとも資格は十分だった。


「若きとはいえ、ヘレナの力と心は民に希望を与える。彼女は、我らが誇るべき者だ」

 場の気配が、ゆるやかに変わっていく。



 しかしその中で、別の司祭が立ち上がった。

「だが、シグルド殿。あなたはあまりにアルマーディ公国に肩入れしすぎている。信仰より国家を優先しているのではないか?いずれそれが、我らの首を絞めることになるのではないか?」


 別の老司祭が低く呟いた。「……その懸念は、私も理解できる。我々は民の盾であるべきで、権力の剣ではない」


 視線が一斉に集まった。衣擦れの音さえ、やけに大きく響く。



 視線を受け止めたシグルドは、一瞬まぶたを伏せた。師の言葉が蘇る。「我らが声を上げねば、誰がこの理不尽を変えるのだ」と。

 師は、自分を反乱の旗頭にしたかったのでは――これまで何度も去来した問いだった。だがシグルドは、別の道を選んだ。


「私は信仰を捨てたことはありません。この任を引き受けたのも、ヴィンダル人の誇りと力を示すため。祈りも仕えも――すべては民を守るためにある」


「……偽りはないのか」


「神の御名にかけて」

 シグルドは胸に聖印を描き、祈りを捧げる。わずかな所作に、彼の誓いが宿っていた。


 その時、トーラが立ち上がった。

「……私は、シグルドの願いをすべて承認する。あなたが何を信じ、何を守ろうとしているのか、今、理解しました」

 その声は小さくとも、深い重みを持っていた。


「彼の選択には慈しみがある。教会がそれを拒んではならぬ。ヘレナには新たな責務を託しましょう。ロツオンの民に祈りを届ける者として」


 張りつめていた空気が解けていく。椅子に座る司祭たちがそっと息をつき、肩の力を抜いた。


 ヘレナが目を潤ませながら腰を折るように頭を下げ、シグルドもそれに倣った。



 そして顔を上げ、淡々と告げる。

「では具体的な話に入ろう。敷地は縦横五十メルテーク(50m)。費用は金貨千枚を提供する。その範囲で建設案を提示して欲しい。そのための寄進は受け取らない。条件はオルカスト教会と同じだ」

 間髪入れず続ける。

「また、ヘレナに付ける若者を派遣して欲しい。少なくとも一人は力ある男性を、一人は女性を含めて」


 その言葉に、トーラが目を見開き、くすりと笑った。

「……その愛想のなさ、本当にあの人に似ていますね。その調子で領主など務まるものかと、つい心配にもなりますが」

 年配の司祭が肩をすくめ、苦笑で応じる。


「ヘレナ、しっかり支えてあげてね。でも、あの人もあれで人望はあった。案外、なんとかなるかもしれないわね」


 あの人――師と同じと言われることは、誇らしくもあり、どこか気恥ずかしくもあった。



 この教会こそが、シグルドにとって故郷だった。


 師の言葉は今も胸にある。

 ただ、その刃を振るう相手も、歩む道も、彼とは違う。


 ――それでも、同じ灯を掲げていると信じていた。


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