第12話 ゼレニカにて――三百の決意
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の六月。
その日、ゼレニカの職人街は、槌音と鋸の音の代わりに、人々のざわめきに満ちていた。
先触れの者が昨日から喧伝していた。
曰く「ロツオン卿シグルドは新たな入植者を破格の条件で求める」と。
道の中央、用意された台に立ったシグルドは、群衆を見渡した。
「ロツオンはまだ白紙の地図だ。そこに壁を描き、屋根を記す。炉に火を入れ、人の暮らしを始めよう。その仕事を、私と一緒にやって欲しい」
その声は、石壁に反響して広場の隅々まで届いた。
「遍歴修行を終え、腕を持ちながら席を得られなかった者よ。血も名も問わない。石を削り、木を組み、鉄を打つ音を、川辺に響かせよう」
人々の表情がわずかに変わる。
「一年分の食糧と住まい、道具を与える。二年間の免税も約束する。新しい街は、ただの仕事場ではない――家族が笑い、子が遊び、仲間と酒を酌み交わせる場所になる。私はその先頭で、君たちと同じ泥を踏み、同じ風にさらされる」
シグルドはこうした演説を数箇所で行った。
港では潮風と荷車の軋みの中、日雇いの男たちが額の汗を拭きつつ足を止め、市門では旅人と商人が混じり合って聴衆の輪が広がった。
隣の者と顔を見合わせる者、拳を握り何度も大きく頷く者の姿がどの場でもあった。
それでも、入植は人生を変える大きな決断だ。
視線の先には、腕を組み目を伏せる者の姿もあった。やがて一人が小さく首を振ると、輪の外へと立ち去った。
◇◇◇
それから数日。
最初は仕事場の隅でひそやかに交わされていた話が、職人街から市場へ、港へ、教会前へと波紋のように広がっていった。
早くも荷をまとめる者や、周囲との別れを済ます者まで現れていた。
そして七月一日、志願者が集うよう告げられた日。
志願者は、果たして三百名を超え、マルトン・バラシャの店先にひしめいていた。若者や働き盛りの者が中心で、女性の姿も三割を占めた。
列を成した志願者の前に、シグルドが立つ。
マルトンや古参の職人たちが横に並び、一人ひとりの顔を確かめた。
「あれは去年、港で揉め事を起こした」「あの男は借金を踏み倒している」――耳打ちが飛び交い、十八名が名を呼ばれた。
シグルドは短く事情を告げ、立ち去るよう求めた。
反発の声が上がり、何人かが「騙された!」「俺はそんなことしていない!」などと叫んだ。だが銀貨一枚を手渡すと、大半は口を噤み、肩を怒らせながらも去っていった。
どうしても従わぬ数名も、瞬く間にシグルドによって地面に組み伏せられた。
日頃の素行を思えば当然だと、周囲も黙して見送った。
最終的に残ったのは、職人証や修了証を持つ職人が五十名、うち、オルカスト人が二十名、ヴィンダル人が三十名。
そうでない者たちは二百五十名、その七割がヴィンダル人であった。
「騒がせてすまない。ここに、ロツオンは君たちを心から歓迎する」
シグルドは、その数と姿に息を呑んだ。彼らの目には一様に熱いものが浮かんでいた。その希望と信頼とが自分の心を急き立ててくる。
「約束は守る。食糧も住まいも道具も、そして二年間の免税も、君たちの門出を支えるために。ロツオンへの出発は、六日後だ!」
歓声が上がり、名簿への記帳が始まった。
記名を終えた者には、支度金として一人ずつ銀貨五枚を手渡し、それぞれが新天地への準備へと取り掛かっていく。
残る課題は船の確保。もっとも、それは既に手配済みであった。
「マルトン殿、出港の備えを頼む。新たな地を目指すこの旅立ちを、万全に整えて欲しい」
交易商は、舞台に上がった役者かのように恭しく礼をした。
「承知しました。良質な船を三隻手配し、必要な糧食と資材を積み込んでおきましょう」
こうして、ロツオン入植者第一陣の旅立ちは、盛夏の陽射しの下に定められた。
三百の命――親を残してゆく者もあれば、家族を伴う者もいる。それぞれが背負うものを胸に、これからの道を歩もうとしていた。
川面の向こうを、商船の白い帆が風を孕んで外海へと進んでいった。
シグルドは己が背負う責任を噛みしめながら、その船影を無言で見送った。




