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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第11話 ゼレニカにて――降りぬ者

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の六月。


 雨は広場の敷石を叩き、その響きが城内にも届いていた。


 外套を脱ぎ、礼装に着替えたシグルドとタマシュは、案内役に導かれて奥まった部屋へ――公爵の執務室へと通される。

 厚い扉が閉じ、しめった空気と遠い雨音だけが残った。高い天井と並ぶ書架が、来客を見下ろしていた。シグルドは、客人としてではなく統治者として招かれたことを、肌で感じていた。



 執務机の脇の長椅子にはすでに三人、イムレ・アルマーディ公爵、公議会の重鎮ヤノシュ・セーケイ男爵、そして官僚長ベネデク・シャーンドルが腰掛けていた。その背後には若い官僚も控えている。


「来たか、シグルド。ロツオンの風は厳しいか?」

 イムレが明るく問う。

「なんとか、地に足をつけております。仲間に支えられて」


 軽口めいた答えに、イムレは目を細めて微笑を浮かべた。だがその笑みは、どこか試すような色を帯びていた。



「座るがよい」

 促されてシグルドは一礼し、長椅子に腰を下ろして口を開いた。

「本日は、お願いが二つあり参上いたしました。まず一つ目は、入植者募集の許可を頂きたく。職人、農夫――規模はまだ定まっておりませぬが、数百人規模を想定しております」


「よかろう。……各ギルドに通達を。どれほど集うか、楽しみにしている」

 イムレは鷹揚に頷くと、傍らのベネデクに視線を移す。

 頷いたベネデクが、控えていた官僚に低く声をかけ、簡潔な指示を与える。官僚は一礼し、足音をひそめて部屋を後にした。



 ややあって、シグルドは話の続きを切り出す。


「もう一つは――このゼレニカから、我がロツオンまでの街道敷設をお願い申し上げたく存じます。すでにご承知かとは存じますが、こちらがベネデク殿作成の見積書となります」


 取り出した書類を差し出すと、イムレはそれを手に取り、無言で目を通す。

 そこには、三年という予定工期とともに、金貨十五万枚という費用が記されていた。


「……“石畳の道を築く者は、礎を築く”。公国の支配を広げるうえで、街道の存在は不可欠ですな」

 ヤノシュの言葉どおりであった。シグルドたちが赴く前のロツオンは、地図の上では公国領であったが、道無き土地は、支配の手からも零れていた。旗も兵もなく、古くからの慣習と部族の会議が暮らしを支配していた。


 そこへ、ベネデクが声を低めて続けた。

「左様にございます。一本の道が通るだけで、民は自らの暮らしが“国”とつながっていると感じるもの。石畳の一筋が、やがて言葉や信仰の壁を越える。国と民とを結ぶことになるでしょう。しかし、問題は費用にあります」



 一瞬、視線を伏せてから、金額を口にした。


「見積もりは金貨十五万枚。この数字は、我が国の歳出の六割に迫ります。以前、黒竜討伐の折に、シグルド卿より献上いただいた金貨十万枚を充てても、なお五万の不足が出ます」


 室内に雨音が満ち、公爵の表情がわずかに曇る。

 とはいえ、この見積もりとて、本国の大街道基準――四層構造を一段階落とし、三層構造としたうえでの金額であった。これ以上の削減は困難だと承知していた。



 沈黙が重く落ちる中、シグルドは〈魔法の鞄〉に手を伸ばした。中から革袋を取り出す。ずっしりと重い。

「ここに、金貨二万枚を用意しております。こちらを、ロツオンからのさらなる献上金として差し出す所存です。街道敷設の一助となれば、幸いに存じます」


 イムレのまなざしが、一瞬だけ鋭さを帯び、それから満足げに頷いた。

「シグルドは並の分限者ではないな。その資金、まだ尽きぬかな?」


「いえ……これを納めれば、手元に残るのは有事への備えのみとなります」

 そう答える声は抑制されていたが、すべてを差し出すことへのわずかな逡巡が影を落としていた。


 この二万という数字こそ、マルトン・バラシャらとともに、シグルドが幾度も計算を重ねて弾き出した上限であった。



 公爵は目を閉じて思案したのち、静かに断を下した。

「――よかろう。シグルド卿の街道を渇望する思い、しかと受け取った。残りの三万、我が手元と国庫の予備費から捻出する」


 思わず息を呑み、シグルドはやがて襟を正し、公爵に感謝の辞を捧げた。



 その姿をしばし見やり、ヤノシュは声を潜め別の懸念を口にした。

「弟君――バリント様に連なる者が、公議会で騒ぎ立てるやもしれませぬな。“なぜゼレニカからロツオンまでなのか。なぜ、ロツオンを経てカールドヴァールまで延ばさぬのか。公金を使って私道を築くのでは”と」


「……ならば、堂々と示すまで。理に背くことはせぬ。シグルドの献上した金貨を公に示せ。バリントが同じだけの志を示すならば、道は開かれよう」


「シグルド卿への矢面が、さらに苛烈になるやもしれませぬな。とりわけ、貴卿が正道を貫こうとするがゆえに」


 ヤノシュの呟きに、誰も否とは言わなかった。



 その瞬間、シグルドはようやく悟った。


 ――己は、すでに舞台の中央に立たされているのだと。期待と、計算と、そして警戒の入り混じった目が、自らに注がれているのだと。


 黒竜の咆哮を浴びた記憶が蘇る。あの時と同じ圧が、今ここにあった。

 誰に押されたわけでも、立たされたわけでもない。気づけば、そこにいた。


 だが、もはやそこから降りようとは思わなかった。


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