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第96話「太鼓橋の見える街」〜気になり出すと止まらないもの〜

ある日、ことのは堂の店先に白沢がひょっこり顔を出した。

「高道、近頃どうも妙なのだ。街のあちこちで太鼓橋ばかりが目につく」


 高道は帳面から顔を上げ、首を傾げた。

「太鼓橋……? 確かに、草浅に一つ、川大のほとりに一つ……でも、そんなに多くはありませんよ」


「いや、だからこそおかしいのだ」白沢は耳と角をぴんと立て、声をひそめる。

「昨日から今日にかけて、七つは見たぞ。まるで街中が橋だらけに思えてきてな」


 そのときだった。障子がガラリと開いて――。

「おほん。呼ばれて飛び出て参上じゃ!」

 ずしん、と床を揺らすほどの重みを響かせて現れたのは、朱塗りの欄干を背負った巨大な付喪神。


「わしこそ、長年人々を渡し続けてきた太鼓橋の精霊! この世の往来を司る者じゃ!」


 白沢は仰天した。

「やっぱり! 見えすぎると思ったら、まさか本人が歩き回っていたとは!」



 その夜、三人(人間と獣と橋)は、ことのは堂の奥で向き合っていた。

 高道は茶碗を手にしつつ、静かに口を開く。


「これは“気づき”が繰り返される心理現象ですな。一度あるものに注意を向けると、不思議と同じものばかりが目につくようになるのです」


「むむ、つまり?」白沢が首を傾げる。


「たとえば新しい草履を買ったとしましょう。それまで気にもしなかったのに、急に街ゆく人の草履ばかりが目に入ってくる。あるいは新しい言葉を覚えると、あちこちで耳にするようになる。脳が『選択的に』拾ってしまうのですよ」


 白沢は「なるほど」と頷く。

「つまり、太鼓橋ばかりが目についたのは……この付喪神のせいで、わしの注意が偏っていたわけか」


 太鼓橋は胸を張る。

「ほっほ! それこそ我が存在感の証よ! 人の心に橋をかける、それがわしの役目じゃからな!」



 しかし日が経つにつれ、白沢の心はざわつき始めた。

 道を歩けば、どこを見ても橋。川辺に行けば、欄干の朱が目に飛び込む。さらには夢の中にまで、橋がにゅるりと現れる始末。


「……わしの頭がおかしくなったのか?」


 かつては冷静沈着な白沢が、寝不足の目をこすりながらことのは堂へ駆け込んだ。

「高道! どうにかしてくれ! 橋が、橋が頭から離れん!」


 太鼓橋はふふんと笑う。

「それでこそ真の橋愛好家! さあ、もっと欄干を撫でてみるがよい!」


「誰が愛好家か!」白沢は怒鳴るが、心の奥で小さな葛藤が生まれていた。

(だが、橋がなければ人は川を渡れぬ。文明を繋ぐ大切な存在……もしかすると、わしが見過ぎているのではなく、本来見えねばならなかったものが目に入ってきただけではないか?)


 自らの観察眼に自信を持つ白沢にとって、それは大きな価値観の揺らぎだった。

「気づけば、わしは……橋に感謝しておる……?」



 そんなある晩。

 高道は焚き火の前で二人に語った。


「白沢殿。気になるものばかり目に入るのは、決して狂気ではありません。それは“心が一度つかんだ糸”を、無意識がたぐり寄せているからです」


 白沢は黙り込む。火に照らされた瞳の奥に、まだ葛藤が揺れていた。

「……だが、それが真実を見せているのか、ただの思い込みなのか、どう見分ければよい?」


 高道はふっと笑った。

「そこが肝心です。大切なのは、現象に振り回されないこと。見えるからといって、それだけが世界ではない。見えないものの中にも真実があるのです」


 太鼓橋はどっしりと腰を下ろし、低く響く声で言った。

「うむ。わしが見えるのも、見えぬのも、人の心次第。だが一つだけ確かなのは……渡る者あっての橋、橋あっての渡る者じゃ」


 白沢はしばらく黙っていたが、やがて肩の力を抜いた。

「……なるほど。わしが橋を見過ぎたのではなく、橋がわしに“渡れ”と呼びかけていたのかもしれんな」



 翌朝。

 白沢はいつもの冷静な姿に戻り、ことのは堂を出て行った。

「高道、礼を言う。これからは、見えるものを恐れずに受け止める。だが同時に、見えぬものも忘れぬようにする」


 高道は微笑み、茶をすする。

「ええ。それが、心を惑わす現象との付き合い方ですね」


 太鼓橋は大笑いした。

「ほっほ! では今日も街のどこかで、誰かに『橋が目につく』と思わせてやろうかの!」


 白沢は額を押さえた。

「……頼むからほどほどにしてくれ」


 その声が響き、街にまた笑いを運んだ。

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