第95話「かまぼこ板の出世街道」〜一枚の板が呼びよせた騒動〜
ことのは堂の店先で、朝っぱらから奇妙な光景が繰り広げられていた。
白木の板が、のそのそと二本足で歩いているのだ。しかも口までついていて、やたらと偉そうに喋る。
「のう、高道殿! わしはもう“ただの板”ではない! れっきとした付喪神じゃ! しかも……魚屋の看板にでも出世してみせる!」
カンカンと地面を鳴らし、威勢よく歩くのは、かまぼこを何百枚も支え続けた板の付喪神であった。
高道は腕を組んで目を細める。
「……はぁ。朝の目覚めにしては、派手すぎる違和感ですね」
ことのは堂の前を通りかかった魚屋の兄さんが、それを見て目を剥いた。
「お、おいおい! それ、うちのかまぼこ板じゃねえか! まさか歩き出すとは……」
「うむ!」板は胸を張る。
「お主の魚を日々支えてきた功績により、わしは魂を得た! されば、もっと立派な役職に相応しい。魚屋の“顔”として店先に立つのじゃ!」
兄さんは頭を抱える。
「いやいやいや! 板が喋っちゃ、客が引いちまうよ!」
その日の午後。ことのは堂の座敷で、三人(人間二人と板一枚)が向かい合っていた。
高道は茶を啜りながら、ぽつりと口を開く。
「……これは典型的な“欲の連鎖”ですね。一つ新しいものを手に入れると、それに合わせて他のものまで新しくしたくなる。人は調和を求めてしまうんです」
「むむ? どういうことじゃ?」と板が首をかしげる。
「たとえば、立派な着物を買ったとします。すると、その着物に合う帯も欲しくなる。さらに帯に合わせた草履、髪飾り……と、次々欲が広がるわけです。これは心理学で――」
高道は言葉を飲み込んだ。学問名を出しても、目の前の板が理解できるとは思えない。
「……つまり、あなたは“ただの板”から“立派な看板”へと、出世したくなってしまったのです。長年の役目から解き放たれて、つい次の格を欲してしまう」
「おおっ! それじゃ、わしは自然の理に従っておるわけじゃな!」
魚屋の兄さんは苦い顔をする。
「理っていうか……うちの板が勝手に“出世街道”に入っちまったのは困りもんだぜ」
翌日。
魚屋の店先には、なんと立派な木札が掲げられていた。そこに並んでいるのは――例のかまぼこ板である。
「へっへっへ! 見よ! 魚屋の顔として看板に立つわしの勇姿!」
板は墨で「新鮮!」と自分の腹に書き付けていた。客は足を止め、指をさして笑い出す。
「兄さん、あれ生きてんのか?」「板が自分で売り込んでるぞ!」
兄さんは頭を抱えるばかり。
「だから言っただろ! 客が引くって!」
ところが不思議なことに、通りは大賑わいになった。物珍しさで客が増え、かえって売上が跳ね上がったのだ。
「すげえな……」兄さんは口をあんぐり。
板は鼻高々に叫ぶ。
「見たか! わしの采配よ!」
数日後。
魚屋はますます繁盛したが、その影には“板の追加要求”があった。
「わしには立派な衣装が要る! 紅白の幕を巻け! さらに、太鼓を鳴らす小僧を雇え!」
兄さんは真っ青になって高道のもとを駆け込む。
「頼むよ高道さん! このままじゃ板の要求で身上を潰しちまう!」
高道は苦笑いして頷いた。
「やはり……最初の一歩が連鎖を生みますね。小さな違和感が、やがて大きな暴走に育ってしまう」
「じゃ、どうしたらいいんだ?」
「簡単です」高道はにやりと笑った。
「“最初の板”を元に戻せばよい」
その夜。
魚屋の裏庭で、高道と兄さんは板を囲んでいた。
「な、なんじゃ、真剣な顔をして」
高道は優しく声をかける。
「あなたは、立派な看板にならずとも、十分に尊い存在ですよ。だって、かまぼこを支える板がなければ、この店の味は守れなかったのですから」
兄さんも頷く。
「そうだよ。お前がいてくれたから、俺のかまぼこは評判になったんだ。看板なんて飾りより、板の役目のほうがよっぽど大事さ」
板は目をぱちぱちと瞬いた。
「わ、わしが……大事?」
「ええ、大事です」高道は微笑む。
「派手な出世よりも、今まで果たしてきた役割こそが、あなたを輝かせるのです」
その言葉に、板はしばらく沈黙した。やがて――すうっと動きを止め、ただの木に戻っていった。
数日後。
魚屋の店先には、また普通の木札が掲げられていた。
兄さんは笑顔で言う。
「客は相変わらず多いよ。あの騒ぎで店が有名になったんだ」
高道は頷き、店の片隅に並ぶかまぼこを見やった。
「欲の連鎖は恐ろしいものですが、きちんと人の心に立ち返れば、また元の調和に戻れるんですね」
兄さんがふと尋ねる。
「なあ、高道さん。もし俺が新しい立派な桶を買ったら……また何か連鎖が起きるのかな?」
高道はにっこり笑った。
「ええ、間違いなく」
二人は顔を見合わせて大笑いした。




