第91話「双六は転がるままに」〜乗るは誰が先か〜
ことのは堂の一角に、見慣れぬ板がどっしりと横たわっていた。色褪せた紙に描かれているのは、富士の山、橋、町、牢屋……。絵はやや剥げてはいたが、駒や賽の目が転がる痕跡が残っている。
「……これは、双六盤ですか?」
高道は障子を開け、薄日の射す座敷でそれを覗き込んだ。
「へっへっへっ! やっと日の目を見るか!」
突然、盤の中央がぱかりと開き、中からちょび髭のついた顔がにゅっと飛び出した。
「わっ!?」
「わしこそ、百年にわたり遊ばれ続けた末に魂を宿した、双六の付喪神じゃい!」
名を「すご六衛門」と名乗るその付喪神は、駒の音を鳴らすように身体を揺らして笑った。
「すご六衛門殿、それで……その、どうしてわざわざ私の前に?」
高道は恐る恐る問う。
「ふん、人間どもはよう、流行りにすぐ乗るじゃろう。江戸の町では今や、双六大会が大流行! わしも町中で声をかけられておるのじゃ」
「おや、それは喜ばしいことではありませんか」
「だがのう……!」
すご六衛門は顔を歪める。
「皆が口をそろえて『わしも双六をやっとかんと損じゃ』『流行りに遅れるのは恥じゃ』と言う。わしと遊びたいんではない、ただ流行に遅れたくないから遊ぶのじゃ! これでは、わしはただの道具扱いではないか!」
高道は顎に手をやり、静かに頷いた。
「なるほど……それは心理学で言う『バンドワゴン効果』ですね」
「ばんど……?」
「人は『皆がやっている』と聞くだけで、自分もやらねばと感じるのです。内容そのものより、仲間外れにならぬことが大事になる。つまり、すご六衛門殿の魅力でなく、『流行っているから』という理由で遊ばれているのです」
「な、なんと! それは拷問に近い仕打ちよ!」
そこへ、襖ががらりと開いた。
「やあやあ、今日もことのは堂は賑やかですねぇ!」
陽気に現れたのは陰陽師のマキビ。懐から護符をひらひらさせながら、にやりと笑う。
「おや、マキビ殿。丁度良いところに」
「ん? なんだい、双六盤が喋ってるのかい? あ、付喪神だね。へえ、ちょうどいいや。最近、寺子屋の子供たちも『皆が持ってる』ってだけで護符を買ってくれるんだよ。ありがたいことだ!」
「ほれ見よ!」
すご六衛門が怒髪天を衝く。
「それじゃ! それが問題なのじゃ! 人は己の意志で選んでおらぬ! 『皆がやっているから』という理由だけで買うなど、わしら付喪神に対する不敬じゃ!」
「ははは、でも人間なんてそんなもんだよ?」
マキビは笑って肩をすくめた。
ーーーーーーー
しかしその夜。
ことのは堂の外から、わいわいと人声が押し寄せた。
「ここに流行りの双六があるって聞いたぞ!」
「わしもやる! 負けてられん!」
「女子供まで集まってきたぞ!」
あっという間に店先は人だかり。
すご六衛門は顔を真っ赤にして叫んだ。
「わしは見世物じゃない! 本当に楽しんでくれる者とだけ遊びたいのじゃ!」
「ですが、流行に乗ってくれるおかげで、あなたが再び日の目を見ているとも言えましょう」
高道の声が柔らかく響く。
「……」
すご六衛門は俯いた。
転機はそこで訪れた。
群衆の中から、小さな子供が一人、駒を抱えて言った。
「わたし、双六って、みんながやってるからじゃなくて……お父さんと一緒に遊ぶと楽しいから好きなんだ」
その言葉に、すご六衛門ははっと目を見開く。
「な、なんじゃと……?」
「お母さん、双六弱いんだけど、笑って怒るの。それが面白いんだよ」
群衆の笑い声が少し和らぎ、場がふっと静まる。
高道は微笑んだ。
「すご六衛門殿。人が『流行だから』と群がるのも事実。しかし、その中に確かに『あなたと遊びたい』と思う者も混じっているのです。大切なのは、彼らを見失わぬこと」
マキビも頷き、護符をひらひらさせて言った。
「ま、バンドワゴン効果は悪いばかりじゃないさ。最初は流行に乗ってでも、やがて本物の楽しさに気づく人もいるんだ。きっかけなんて案外、そんなもんだろ?」
すご六衛門はしばし黙り込み……やがて、くわっと笑った。
「よし! わしは流行りの波に乗りながら、本当に楽しんでくれる者を探し出す! それこそ双六の旅路よ!」
「それでこそ」
高道が笑う。
マキビは賽を取り出して、ころんと転がした。
「じゃあまずは僕らで遊ぼうじゃないか。ほら、出目は六! 幸先いいねぇ!」
「くっ、先に進まれたか! だがわしの盤は容赦せぬぞ!」
「おや、牢屋マスに止まりましたよ、マキビ殿」
高道が涼しい顔で告げると、マキビは顔を真っ青にした。
「いきなり捕まるなんて聞いてないよぉ!」
笑い声と歓声が渦巻く中、ことのは堂の夜は更けていった。
双六は転がり続け、人の心もまた、流行と共に揺れながら――。




