第89話『手紙が呼ぶ、記憶の影』〜朧の夜に〜
ことのは堂の障子をガラリと開けると、香ばしい茶の香りが広がった。
店主の高道は、湯呑を二つ並べてから、珍しく険しい表情をしている朧丸を見やった。
「……何か食べたんですか?」
「あぁ」
返事をしたのは、薄闇の中に佇む妖怪――朧丸である。
人の記憶を糧とするその姿は、どこかあやふやで、目を凝らせば溶けてしまいそうな影をまとっている。
「また変なものを喰いましたね」
「今回は手紙なんだが…」
そう言って朧丸が差し出したのは、黄ばんだ封書。けれど封は切られておらず、どうやら“開けられなかったまま”幾十年を経た手紙らしい。
「ほう……これは付喪神ですね」
高道は一目で見抜いた。
長年使われ、想いを宿した物が魂を持つ――それが付喪神だ。
と、その手紙がぷるぷる震え、か細い声をあげた。
「わ、わしは……たしかに開けられたはずなんじゃ! けれど、誰も読んでくれんのじゃ!」
高道は首を傾げた。
「開けられた記憶があるのに、実際には開けられていない……。これは“マンデラ効果”ですね」
高道は茶をすすりながら語りだした。
「人々が集団で、実際とは異なる記憶を共有している現象を申します。たとえば“この町の橋には欄干があった”と多くの人が覚えていても、実際には最初から無かったりする。小さな思い違いが人々の間で広がり、やがて“事実”のように信じられてしまうのです」
手紙の付喪神は声を震わせた。
「わしは……読まれたのか、読まれなんだのか……。どっちが本当なんじゃ?」
そこへ朧丸が口を挟む。
「……その答えは、俺の腹にある」
「腹に?」
妖怪の目が淡く光る。
「俺は人の記憶を食らう。だから、この手紙を巡る記憶も食べている。……だが、困ったことに、二つの記憶が同時に残っている」
一つは――若い娘が震える指で封を切り、涙をこぼしながら読み上げた記憶。
もう一つは――誰にも開けられぬまま机の奥に仕舞われ、やがて忘れ去られた記憶。
「どちらも“真実”として存在している」
朧丸の声は低く、どこか切なかった。
高道は腕を組んだ。
「なるほど。記憶というのは、事実そのものではなく、人の心が映す幻にすぎません。……けれど、この町で“あの手紙は読まれた”と信じる者が多ければ、それもまた現実の一部となるでしょう」
その時、ことのは堂の戸を叩く音がした。
入ってきたのは白髪まじりの老女であった。
彼女は懐から、同じ封の手紙を取り出す。
「……その手紙を、探しておったんです」
声は震えていた。
「若い頃、あの人に渡したはずなのに……返事が届かなんだ。わたしは“開けてもらえなかった”とずっと思い込んでおりました。けれど……今でも“あの人は読んでくれた”と信じたい自分がおるのです」
老女の目から涙がこぼれる。
その瞬間、付喪神の身体がふわりと光り、震えを止めた。
「……わしは、確かに開かれたのじゃな」
安堵の響きを残し、封書はふっと形を失った。
静寂が訪れる。
朧丸は口元を歪めた。
「結局、どちらが真実だったのかは分からないままだ。」
「いいえ」高道は微笑んだ。
「“開けられた”記憶も、“開けられなかった”記憶も、どちらも真実だったのです。人の心が選び取った方こそ、その人にとっての現実となる」
老女は静かに手を合わせ、深く礼をして去っていった。
その背を見送りながら、高道は言った。
「――マンデラ効果とは、不完全な記憶の綻びから生まれる幻。しかし、ときにそれが、人を救う希望にもなるのですな」
縁側に秋の風が吹き込み、茶の香りがひときわ広がった。
残された朧丸は、空を仰ぎながら呟いた。
「……記憶を喰らう俺ですら、どちらが幻か分からない。けれど……どちらも温かい味がした」
夜が更け、ことのは堂には静けさだけが残った。
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若き日の想い人が封を切り、文字を目で追い、静かに微笑む姿。『必ず帰る』――その言葉は、彼の胸に勇気を灯し、戦の厳しさに耐える力となった。手紙はただの紙ではなく、生きる支えであった。
現実の机の奥に封を切られぬまま残された同じ手紙の姿。彼は、彼女に辛い思いをさせぬため敢えて開かなかった。返事だけは別の紙に書き置き、「読む必要はない、気持ちは伝わっている」と心に刻んだのだ。未開封の手紙は、愛を守り続ける証だった。




