第87話「筆の余白に宿るもの」〜書きかけの心〜
ことのは堂の障子をがらりと開けると、秋風に乗って墨の香が漂った。高道は机の上に置かれた一本の古びた筆に目を留めた。軸はすり減り、毛先はまだ柔らかいが、幾度も墨を含ませた跡が残っている。
その筆が、ふっと揺れた。
「……おや、目覚めましたか」
高道が丁寧に声をかけると、筆は小さな目と口をかたどり、低く囁いた。
「わしは……長きにわたり人に使われ、ようやっと魂を得た。名はまだないが、付喪神じゃ」
高道はにっこりと笑い、湯呑を差し出した。
「では、茶でも飲みながらお話を。ところで、あなたは何故にここへ?」
「……気がかりなことがある。わしは幾百の文字を綴ったが、最後の主が物語を書きかけのまま逝ってしもうた。それが気にかかって、眠れぬのだ」
付喪神は、とつとつと語り出した。
『ある森に、小さな動物たちが暮らしておりました。
子兎は跳ね回り、子鹿は泉で水を飲み、子狐は落ち葉の山に潜って遊びます。けれど、それぞれの家は離れており、夜になるとひとりきり。みな、ほんの少しだけ寂しさを抱えていました。
ある秋の日、子兎が言いました。
「みんなで一緒に過ごせる場所があればいいのに」
子鹿は耳を揺らし、子狐はふさふさの尾を振りました。
「じゃあ、力を合わせてつくろうよ!」
落ち葉で屋根を、枝で壁を、苔で柔らかな床を――小さな体を寄せ合いながら、笑い声と共に家はかたちを成してゆきました。
完成間近、夕暮れの光が森を朱に染めたとき、子兎がふと立ち止まりました。
「でも、もし嵐が来たら……」
その言葉に、みな黙り込みました。強い雨や風に耐えられるのか、まだわからなかったからです。
それでも、子鹿が静かに言いました。
「大丈夫。壊れても、また一緒につくればいい」
…』
――ここで筆は止まっていた。
けれど動物たちの笑顔が浮かぶような温もりが残っていた。
筆の声には、墨にじむような哀しみがあった。
夕暮れ、ことのは堂の縁側で。
高道は筆の語りを聞きながら、静かに頷いた。
「人はなぜ、書きかけや途中のことを心に残すのでしょうね。心理学で『ツアイガルニック効果』と呼ばれる現象があります。達成されぬ課題や未完の仕事ほど、強く記憶に残るのです」
「……それゆえ、わしも忘れられぬのか」
「ええ。物語が終わらなかったからこそ、あなたもその続きを探している」
筆はしばし黙した。風に揺れる簾の影が、その表情を寂しげに映す。
「わしは、完成を望んでおった。人に仕え、最後まで共にしたかった。だが未完のまま主は消え、わしは取り残された」
その声には悔恨と寂寥が入り混じっていた。
夜。灯明の下で高道は筆を手に取った。
「……では、続きを書いてみませんか。たとえ同じ形にはならずとも、あなたの記憶を繋ぐことはできる」
「わしが、主の代わりに?」
「はい。心の中の物語を吐き出すように」
筆は震えた。
「だが、それは裏切りにならぬか。主の想いを違えることにならぬか」
その葛藤が、まるで墨がにじむように広がってゆく。
高道は筆をそっと置き、静かに言葉を添えた。
「未完の物語は、心に残り続けます。けれど、それは苦しみだけではない。続きを思うからこそ、亡き人と語り続けられるのです。あなたが書くのは、主を裏切ることではなく、共に歩むこと」
筆はしばらく沈黙した。だが次第に、その毛先が淡く光を帯びた。
ーーーーーーー
翌朝。
ことのは堂の机には、数行の文字が並んでいた。
それは拙くも優しい文であった。
高道はその文字を読み、そっと目を閉じる。
「未完だからこそ、心は進み続ける……。あなたの主も、それを望んでいたのでしょう」
筆は静かに頷き、やわらかな声で言った。
「……わしはもう、迷わぬ。未完ゆえに残された余白、それこそが主との絆なのじゃな」
朝日が昇る。
光に包まれた筆の姿は、次第に薄れてゆく。最後に残した言葉は、風に紛れて消えた。
机の上に残った文字だけが、やさしく輝いていた。




