第86話「おでん鍋から現れたご先祖狸」〜芝居小屋と祖先効果のドタバタ騒動〜
ことのは堂の障子をガラリと開けるや否や、ぷぅんと漂う香りに高道は鼻をくすぐられた。
「……おでん、ですか?」
「へい、高道! 今日は特製のおでんじゃっ!」
威勢よく声を張るのは、狸の姿をしたおでん屋の店主・タヌさんだ。隣では相方のツネさんが、汁気たっぷりの大根を箸でつつきながらにこにこしている。
だが今日の屋台は、いつもと雰囲気が違った。鍋の中からぼこぼこと音が立ち、まるで温泉の地獄釜のように湯気が立ちのぼっているのだ。
「九月の終わり頃にもなるとご先祖さまが帰って来るって話、高道も知ってるか?」
タヌさんが胸を張る。
「なるほど(お彼岸のようなものですね)」
「で、せっかくだから、お客が鍋を通してご先祖さまに会えるように細工したんでさぁ!」
「鍋で!?」
ツネさんが「だいぶ危ないことしてますよね…」と呟いた次の瞬間――。
――ぽんっ!
鍋から湯気と共に、毛並みの立派な大狸が飛び出した。
「ほほう、現世か! 我は、タヌの曾祖狸・ぽん右衛門である!」
「げ、ご先祖さまっ!?」
タヌさんが腰を抜かす。高道は扇子で口を覆い、目を丸くした。
「しかしまあ……本当に出てくるとは」
高道は落ち着きを取り戻し、鍋の傍らに座した。
「実は心理学でも“祖先効果”と呼ばれる研究があります」
「祖先……効果?」とタヌさん。
「はい。人は先祖を意識すると、自分の存在に連続性や支えを感じます。『代々続いてきた命の先に自分がいる』と思うことで、努力や挑戦への自信が増すんですよ。先祖が後ろで見守ってくれている、と思えば踏ん張れる……そんな効果です」
「へえぇ! じゃあオレ、もっと立派なおでん屋になれるってことか!?」
興奮するタヌさんに、ぽん右衛門がうむとうなずく。
「そうとも! わしら狸一族は、昔は人間に化けて芝居小屋を大いに盛り上げたものよ。おぬしも屋台で芝居を打つがよい!」
「芝居!? おでん屋で!?」
「ちょっと待ってください!」と高道。
「先祖効果は“自信”や“やる気”を高めますが、必ずしも奇抜な方向に向ける必要はありませんよ!?」
だが、時すでに遅し。
ぽん右衛門がパッと扇子を振ると、鍋から立ちのぼる湯気が舞台幕のように広がり、道端に即席の芝居小屋ができてしまった。
「さあ、観客を呼ぶのじゃ!」
「うわぁぁ、高道! どうしたらいいんじゃ!?」
「……やるしかないですね」
高道が肩をすくめた。
そこへ通りがかりの町人たちがぞろぞろ集まり、期待の眼差しで腰を下ろす。ツネさんは「ほら、タヌさん、腹くくってください」と背中を叩いた。
幕が開くと、タヌさんが大根を振りかざして登場。
「我こそは……熱々おでん侍!」
どよめく観客。ぽん右衛門は鍋の中から笛を吹き、ツネさんはつみれを太鼓にしてリズムを刻む。
高道は観念してナレーション役に回った。
「これは……人と狸とおでんが織りなす、熱きご先祖物語!」
だが芝居はドタバタの極みだった。
大根を振り回せば汁が飛び散り、こんにゃくがすべって観客の頭にぺたり。つみれ太鼓は弾けて飛び、屋台の灯籠は真っ逆さま。観客は爆笑の渦だが、本人たちは必死だ。
「ご先祖さまァァ! 助けてぇぇ!」
「うむ、実に堂々としておるぞ、孫狸よ!」
「全然堂々してないッスーー!」
やがて芝居は強引に幕を閉じ、観客は腹を抱えて帰っていった。屋台はぐちゃぐちゃ、鍋の中は空っぽである。
ぐったりと座り込んだたぬきちに、ぽん右衛門がにこりと笑った。
「どうじゃ。ご先祖の力を感じたであろう」
「……はい。なんだか失敗しても、笑ってくれる人がいるんだって思ったら……少し勇気が出ました」
「それでよい。それが祖先効果というものじゃ」
高道も扇子を畳んで微笑んだ。
「要は、ご先祖さまが背中を押してくれる気がする……その感覚が人を強くするんですよ」
夕焼けが街を染める中、ぽん右衛門はふわりと湯気に包まれ、再び鍋へと吸い込まれていった。
「さらばだ、孫狸よ。また秋分の日に会おうぞ」
「ううっ……来年はもっと立派な姿を見せします!」
「その意気や良し」
ツネさんが肩を叩き、「まずは普通におでんを売れるようになりましょう」と笑う。
こうして秋分の日の大騒動は幕を閉じた。
だが――ことのは堂に帰る道すがら、高道の耳にはまだ、笛と太鼓のドタバタ芝居の余韻が残っていた。




