第85話「坂道の向こうの魂たち」〜光と笑いの一歩〜
とある村の外れに、誰も近づかない細い坂道がある。
昼間でも薄暗く、霧が絡みついたような雰囲気のその坂は、古老たちから「黄泉比良坂」と呼ばれていた。
ここは、死者たちが現世と黄泉の間で足を止める場所――変化を恐れる魂が立ちすくむ。
朧丸は坂の下で両手を腰に当て、ため息をついた。
「……相変わらずだな。まるで酒の席で最後まで箸を置かねえじいさんどもみてえだ。」
朧丸の視線の先には、坂道にずらりと並ぶ死者たちがいる。
衣服はぼろぼろ、髪は乱れ、目だけがやけに生気を帯びて光っていた。
しかしその目は、どこか「このままでいい」と言わんばかりに閉ざされている。
「こんなもん、ほっといたら永遠に歩かねえぞ」
朧丸が叫ぶと、坂の中ほどに座り込んでいた白髪の男が、眉をひそめた。
「いや……いやいや……ここにいるのが安全だ……黄泉なんて怖い……変わりたくない……」
その瞬間、坂の霧がくるくると舞い上がり、死者たちの小声がざわめきに変わる。
「変わるのは怖い……現状維持……現状維持……」
マキビは杖の先に小さな護符をくくりつけると、坂道にそっと振った。護符から微かな光が洩れ、霧の隙間を縫って坂を照らす。光に照らされた霧の中、死者たちの輪郭がふわりと浮かび上がる。
「黄泉比良坂の魂よ、少しでも進もうという気持ちがあるなら、この護符の光を頼りに歩きなさい」
マキビの声は静かだが、確実に霧に染み渡る。
それでも死者たちは頑なに動かない。中年の女が小さく震えながら言った。
「いや……このままで……ここで座っていた方が……」
朧丸が両手を大きく振り上げ、怒鳴る。
「酒も飲めねえぞ! 座ってる場合じゃねえだろ!」
その一喝で、周囲の死者たちが小さく跳ね、ざわつきが生まれる。朧丸は続けた。
「黄泉なんざ、怖くて当たり前だ。でも、ここで止まってちゃ何も変わらねえんだ! せめて歩いてみろ、歩いてみれば道は見える!」
死者たちは小声でうめきながらも、少しずつ足を前に出す。ひとり、またひとりと、坂の下から上へと進み始めた。
マキビは護符を左右に揺らし、光の道を広げる。坂道に沿って、ふわふわと暖かい光の帯が伸びる。
「怖がらなくてもいい、変化は恐ろしいものですが、怖がるだけでは永遠に同じ場所ですよ」
ふと、坂の途中で止まった老爺がぽつりとつぶやく。
「そうか……変わるのか……いや……いや……変わりたくない……」
朧丸は杖をひょいとつかみ、老爺の肩を軽く叩いた。
「おう、変わりたくねえのはわかる。でもな、ここにいるままじゃ何も始まらねえんだぞ。動いてみろ、動いてみれば酒も笑いもあるんだ!」
老爺は目を丸くし、ふらふらと足を進める。少しぎこちない歩みだが、それでも坂を上るたびに、背中の重みが軽くなるように見えた。
やがて坂の頂上が見え始める。夜空には満月がかかり、微かな星の光が坂を照らす。死者たちの足音が揃い始め、ざわつきは静けさに変わった。
「……なんだ……少し……楽になったような……」
女も、老爺も、そしてその他の死者たちも、皆口々に小さく笑い声をあげる。
マキビが護符を空高く掲げると、光はひときわ強く輝き、死者たちの体を包む。すると、坂道を歩む魂たちは、ふわりと浮かび上がり、夜空に溶けていった。星屑のように煌めきながら、黄泉へと還っていく。
朧丸は坂の下で腕を組み、にやりと笑った。
「ほらな。怖がってるだけじゃ何も変わらねえんだよ。動きゃ、道はできるってこった」
マキビも肩をすくめ、ふわりと笑う。
「現状維持も悪くはないけれど、時には一歩踏み出す勇気が必要ですからね」
坂の霧が少しずつ晴れていき、夜空の星がひときわ明るく輝いた。黄泉比良坂に残るのは、朧丸の笑い声と、護符の淡い光だけ。村の夜は、どこかしら温かさを帯びて、静かに更けていった。
ーーーーーーー
坂の下には、朧丸とマキビが腰を下ろして残りの霧を見守っている。
「いやー、今回も無事に送り届けたな」
朧丸は手を広げ、坂の向こうを見やる。
「ええ、でも……誰かが一歩を踏み出す勇気を出さないと、こうしてまた迷い続けるでしょう」
マキビは護符を胸元にしまいながら、ぽつりと言った。
その時、坂道の下から軽快な足音が聞こえた。
「おや、誰か来るようですね」
朧丸は眉をひそめ、坂下を見渡すと、赤い着物に白い袴を着た男がゆっくりと現れた。
「高道殿……?」
マキビが小さく笑いながらつぶやく。
高道は手に紙束を持ち、にこやかに坂を登る。
「ふふ、いやあ、2人ともご苦労様です。今日は用事があって、黄泉比良坂の様子を見に来たんです」
朧丸は腕を組み、くすくす笑う。
「おう、用事ってなんだよ。黄泉の魂でも数えて回るのか?」
高道は肩をすくめ、紙束を振った。
「いやいや、今日は“現状維持バイアス回避チェックリスト”の配布です。これを読めば、誰もが自然に一歩踏み出せる……はずです」
マキビが目を丸くする。
「高道殿、それ、まさか心理学の用語を直に書いたやつですか?」
高道はにっこり笑った。
「ええ、魂にも心理学を教えてあげないと、いつまで経っても同じ場所に留まっちゃいますからね」
朧丸は手を腰に当て、あきれたように言った。
「お前ってやつは……紙一枚で魂を動かせると思ってんのか?」
高道は坂道を歩きながら、紙束をひらひらと振る。
「動きますよ、ほら見てください」
すると、坂道の霧の中から、先ほど黄泉に溶けたはずの死者の一人が戻ってきた。手には高道の紙を握りしめている。
「これを……読むと……勇気が出る……?」
死者は小さな声でつぶやき、少しぎこちなくも前に進む。
朧丸は目を見開き、口を開く。
「おいおい、戻ってきやがったぞ! まさか紙一枚で……」
マキビは腕を組んで笑う。
「いやあ、高道殿のやることは、いつも予想外ですね」
高道はうんうんと頷く。
「人間の心理は、時にシンプルな工夫で大きな効果を生むんですよ。現状維持バイアスも、ちょっとした刺激で崩れるものです」
朧丸は肩をすくめ、ふっと笑った。
「なるほどな……しかし、現状維持をぶち破るのも大変だな。酒で煽って、光で導いて、紙で説得……まるで祭りみてえだ」
高道はにこりと笑い、坂の下に紙束を置いた。
「祭りですか……それも悪くない表現ですね。心理学も、楽しければ受け入れやすい。人も妖も同じです」
坂道の霧が少しずつ晴れ、夜空の星が輝きを増す。朧丸、マキビ、高道の三人は坂下に腰を下ろし、満月を見上げた。
「さて……次は誰の現状維持バイアスを崩す番かな?」
高道が紙束を指さすと、朧丸はにやりと笑う。
「酒でも飲みながらのんびりやるか。」
マキビも笑いながら言った。
「黄泉比良坂は、今日も賑やかですね。怖がるだけじゃなく、ちょっと楽しみながら変化する――そんな場所にしてあげたいものです」
三人の笑い声が坂にこだまし、霧の間に溶けていく。黄泉比良坂は今日も静かに、しかし確かに、変化の兆しを帯びていた。
坂の向こう、夜空に溶けた魂たちは、星屑のように輝きながら黄泉の世界へと還っていく。そこにはもう、恐怖よりも少しの勇気と、ちょっぴりの笑いが残されていた。




