第82話『雨に囚われし女』 〜心をほどくは小さな一歩〜
しとしとと細かな雨が途切れることなく落ち続けていた。空は重く垂れこめた鉛色の雲に覆われ、昼であるのに薄暗い。川面は濁流となって岸を噛み、今にもあふれそうに膨らんでいる。田畑の稲は水を吸いすぎて穂を垂れ、冷たく湿った土の匂いが立ちのぼった。
「……またか。これじゃあ干した着物が台無しだ」
町人たちは空を仰ぎ、肩を落とした。
この町では、ひと月も晴れ間がなかった。原因はただひとり――「雨女」と呼ばれる存在である。
その女は、薄墨色の着物に身を包み、髪は水気を含んでしっとりと垂れていた。誰とも交わらず、川辺の小屋に独りで暮らす。
彼女が外に出るたびに雨が降る。町の者は避け、時に石を投げてさえきた。
「どうせわたしが願ったところで……雨は止まない」
女は小屋でぽつりと呟く。
かつて幾度も祈り、祓いも試した。だが空は一度も応えなかった。
努力しても報われぬ日々を重ね、やがて彼女は、何もしないことを選んでしまった。
それはまさに「学習性無力感」。
人は繰り返しの失敗に慣れすぎると、挑む気力さえ失う。
――そんな折、ことのは堂の高道が町を訪れる。
「おや、また雨ですね。これでは傘も乾きませんね」
どこか飄々とした声音に、道行く町人が顔を上げる。濡れ縁の下に、白地の羽織をすらりと着こなした若者が立っていた。彼は濡れた草履を片手に持ち、もう一方の手で軽く払っている。雨粒に照らされた髪は黒曜のように光り、口元には余裕めいた笑みが浮かんでいた。
その若者――高道は、旅の途次に現れては人の願いをことばに映し、結び直すという不思議な業を生業としていた。。
「旅人さん、頼む、この雨をどうにかしてくれ!全部雨女のせいなんだ!」
町人の叫びに、高道は少し考え、静かに頷いた。
「雨女さんに、会わせていただけますか」
川辺の小屋を訪れた高道。
戸口を叩くと、湿った風のような声が返った。
「……ここへは来ない方がいい。わたしに関われば、また雨に打たれるだけ」
高道は微笑む。
「雨ならもう慣れました。少し、お話を聞かせてもらえますか」
女はしばらく沈黙した後、扉を開いた。
中には水の匂いが満ちており、女は瞳に光を宿さぬまま座っていた。
「わたしは何をしても駄目。祈っても、泣いても、誰かを助けようとしても……結局、雨が降る。もう望むのはやめたのです」
高道は静かに頷き、懐から護符を取り出した。
「学びが深すぎて、逆に縛られてしまったのですな。人は失敗を重ねると、やがて『どうせ無理だ』と心に刷り込んでしまう。これを心理では“学習性無力感”と申します」
女の瞳が揺れた。
「……学習、性……」
「けれど、無力と学んだ心も、言葉でほどけます。たとえば――」
羽織の裾に手を入れ奥から【雨も、いつか虹を呼ぶ】と書いた護符を取り出し女に手渡した。
「小さな一歩で構いません。今日は一度、外へ出てみましょう」
女は戸惑いながらも、細い肩を震わせて立ち上がった。畳に残る足跡からは水がにじみ、小屋の中までも湿り気が忍び込んでいる。ぎいと戸を押し開けると、外はやはり雨。無数の水の粒が白い糸となって降り注ぎ、屋根からは途切れぬ雫がしたたり落ちていた。だが、厚く垂れ込めた雲の切れ間から、一筋の光がすっと差し込んだ。
「……虹?」
女の声がかすれ、瞳が大きく見開かれる。彼女の背後に淡い七色の弧がにじみ、雨粒が宝石のように煌めいた。
高道はその様子を見て、柔らかく笑った。
「ええ。貴女が外へ出ると決めた、その瞬間に空も応えたのでしょう」
ざわざわと足音が近づく。町人たちが傘を手に集まり、雨女の姿に驚愕の息を洩らした。しかし、虹を背に立つその姿は恐怖を呼ぶものではなく、むしろ神仏の化身のように清らかで、人々の胸に不思議な安らぎをもたらしていた。
女の頬を、雨とは違う温かい滴が伝う。
「……わたし、また歩いていいのですね」
「もちろん。雨を降らす力も、虹をかける力も、貴女の一部。受け入れて進めばよいのです」
こうして雨女は、孤独を破り、町と再び縁を結ぶことになった。
空にはまだ小雨が残っていたが、人々の心には晴れ間が差し込みつつあった。




