第76話「ぽよん保育所奇譚」〜鏡に映るぼくとわたし〜
ヨイノの国の町外れ。桃色の花が咲き乱れる並木道の先に、子どもたちの声が響く建物があった。
ちーのうや・ヤヨイが営む保育所だ。妖怪も人間も分け隔てなく通い、泣く子も笑う子も一緒に育つ、不思議であたたかな場所である。
ある日の午後。ことのは堂の高道は、子どもたちの相談を受けに、町はずれの保育所へと足を運んでいた。
小さな庭には赤や青の手作りの旗が風に揺れ、砂場からは子どもたちの笑い声が響いてくる。扉を引けば、甘いおやつと木の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
次の瞬間――どん!と視界いっぱいに迫りくる、やたらと存在感のある胸の膨らみ。思わずのけぞった高道の前に、丸顔で愛嬌たっぷりの保育士ヤヨイが現れた。頬は林檎のように紅く、笑い声は陽だまりのように明るい。
「高道さーん! ちょうどいい時に!」
満面の笑みで腕を広げる彼女の声に、子どもたちまで「たかみちせんせー!」と真似をして駆け寄ってくるのだった。
「先生、この子を見てやってください!」
ヤヨイが抱えてきたのは、三つになる河童の男の子・カッ平。最近どうにも落ち着きがなく、やたらと鏡の前に立ってはじっと自分を見つめ、時には「これはだれ?」と首をかしげているという。
「鏡に向かって話しかけるんです。『おまえ、誰だ!』って」
ヤヨイが困った顔で胸を揺らす。
「なるほど、それは“自己意識”が芽生えている証拠ですよ」
高道は頷いた。
「じこいしき……ですか?」
「ええ。子どもは最初、自分と周りの区別がつきません。でも二歳を過ぎた頃から『ぼく』『わたし』を理解し、自分という存在を意識し始めるんです。鏡に映った姿を“自分だ”と気づくのも、その発達の一つなんですよ」
「じゃあ、鏡に夢中なのは悪いことじゃないんですねぇ!」
ヤヨイはほっと胸を撫でおろす――もっとも、その動作で胸が波打ち、そばの子どもが目を丸くしていたが。
その後、カッ平は「ぼく、カッ平!」と胸を張って宣言するようになった。
自分の名前を誇らしげに言えるようになり、周りの子どもたちも「わたしは!」「おいらは!」と次々名乗り合い、保育所は小さな自己紹介大会になっていった。
「なんだか賑やかですねぇ。こういうのを見ると、成長を感じます」
ヤヨイは感慨深げに目を細める。
「自己意識が芽生えると、自分を主張するようになります。同時に、他人との違いに気づき、衝突も増える。これからが本番ですよ」
高道は静かに告げた。
その言葉どおり、しばし訪れた平穏は、嵐の前触れだった。
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翌日――。
「ぼくの方がかっこいい!」
「いいや、わたしの方がかわいい!」
子どもたちが鏡を取り合って大喧嘩を始めた。カッ平は頭の皿から水を飛ばして鏡を死守し、人間の女の子は泣きながら引っ張り合う。保育所は一転して大混乱である。
「きゃーっ! 先生、どうしましょう!」
ヤヨイは慌てて子どもたちを抱き上げようとするが、その胸にぶつかった子が「ぼくのおっぱい!」と叫び、さらに修羅場と化した。
「おっぱいは誰のものでもありません!」
高道が珍しく声を張り上げた。
子どもたちは一瞬静まり返る。
その隙をついて高道は、コホンッと咳払いをして続けた。
「いいですか。鏡は一つしかないけれど、心の中にはそれぞれ自分だけの鏡があります。他の子と比べるのではなく、“自分は自分だ”と見つめることが大切なんですよ」
子どもたちはぽかんと口を開け、やがて「じぶんはじぶん!」と口々に復唱し始めた。
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その日の夕暮れ。
迎えに来た親たちに手を振りながら、カッ平は小さな声でつぶやいた。
「ぼくは、ぼくだ。だれでもない、ぼくなんだ」
その背中を見送り、ヤヨイは思わず目頭を押さえる。
「先生……子どもってすごいですねぇ。自分を知るって、こんなに大事なんですね」
「ええ。だからこそ、周りが受け止めてあげることが必要なんです」
高道は頷き、少し真顔になった。
「……ただし、胸を張りすぎて子どもの視界を塞がないように」
「先生! その一言はいりません!」
ヤヨイがぷくっと頬を膨らませると、近くの子どもがくすくす笑い出し、保育所はまた温かな笑い声に包まれていった。




