表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

72/142

第72話『川辺にて、きゅうりと護符と――』〜昼餉に記憶を添えて〜

川面にゆらゆらと光が踊る。昼下がりの江戸異界、ことのは堂の高道は、店先に腰をおろして文を書いていた。

「人は、誰と一緒に食事をするかで、食べ物の味や相手の印象すら変わる――これを心理学で『ランチョン効果』と呼ぶ。」

と、独り言のように筆を走らせていると、川下から笛の音が響いた。

音の主は、笠をかぶった妙に気障な河童であった。

「……おや、昼餉(ひるげ)の香り。どうやら君のところで、最上のきゅうりに出会えると聞いたのだが?」

しゅるりと登場したその河童、どこか余裕たっぷりの笑みを浮かべ、腰にさした旅袋を揺らしている。

「また妙な噂ですね。うちは雑貨屋であって、八百屋ではありませんよ」

「ふむ、多雑なものもきゅうりも似たようなもの。どちらも心を潤すのだろう?」

河童は気障な調子で言い、ことのは堂に上がり込んだ。

そこへ、もうひとりの常連――マキビが現れた。いつも猫のように笑う陰陽師で、今日も左の八重歯を覗かせて楽しげである。

「おやおや、高道どの。珍客ですね」

「マキビさん、止めてくださいよ。他人事みたいに笑っていないでください」

「いやいや、昼餉を共にすれば万事うまくいくものですよ」

そう言ってマキビは持参した包みを広げる。中からは握り飯と焼き魚、そして――瑞々しいきゅうりが。

「なっ! そのきゅうりは……!」

河童の目が怪しく光る。


ーーーーーーー


三人は、なぜか縁側で昼餉を共にすることになった。

香ばしい魚の匂い。涼やかなきゅうりの歯ごたえ。

談笑のうちに、気障(きざ)な河童の言葉は柔らぎ、気がつけば高道とマキビに「いや、君らといると悪くない」と笑みを見せていた。

「ほらな、高道どの。食を共にすれば、相手の印象は良くなる」

「確かに、学問の理を身をもって証明されましたね」

 ――と、その時。

河童が急に額を押さえた。

「……ん? 私、なぜここに……? 記憶が……」

顔色を変えた河童に、高道は息を呑む。

「もしかして……あなた、記憶を失っているのでは?」


マキビはにやりと笑った。

「そうそう。思い出してきたでしょう? あなたが『最上のきゅうり』を求めて旅をしていたわけを」

河童は断片的に思い出す。

数日前、怪しげな屋台で振る舞われた胡瓜汁――。

それを食した途端、旅の目的も、己の名すら霞んでしまったのだ。

「そうか……私は……記憶を戻すために、最上のきゅうりを……」

「なるほど、伏線がつながりましたね」

高道はうなずき、紙片を取り出す。


そこには護符の文字。

「食と共に心を結ぶ『縁結び護符』。これを握り飯に忍ばせておいたんです」

「な、なんと……!」

そう、マキビが差し出した昼餉はただの食事ではなかった。

護符と共に味わうことで、心の結び目が解け、河童の失われた記憶を呼び覚ましたのだ。

「ふふ、つまり私は……護符と食事に救われたわけか」

河童は笠を傾け、どこか照れくさそうに微笑む。

「きゅうりだけを追い求めていたのに……結局、大事なのは“誰と食べるか”だったのだな」

その言葉に高道は深くうなずいた。

「まさしくランチョン効果です。食卓を共にした仲は、ただの味を超えて心を結ぶ。――あなたの旅も、そこから始まるのかもしれません」

河童は少し気障に、しかし今度はどこか素直に答える。

「ならば、君らとの食事こそが、最上のきゅうりだったということだ」

マキビは八重歯を覗かせ、楽しげに笑った。

川面には夕陽が差し、三人の影を染め上げていた。


ーーーーーーー


数日後。ことのは堂の縁側で、再び三人はお茶を囲んでいた。

「いやぁ、すっかり記憶も戻ったし、改めて礼を言おう」

河童は涼しい顔で頭を下げる。

「いえ、お役に立てて良かったです」

高道はにこやかに応える。

すると、高道が茶碗を揺らしながら、眉根をひそめた。

「……でも、不思議だと思いませんか?」

と高道。

「記憶を失うほど怪しげな“きゅうり汁”を、いったい誰があなたに振る舞ったのか」

「……!」

河童の目がぎょろりと光る。

「そういえば……あの時の屋台の主、妙に八重歯が覗いていたような……」

全員の視線がマキビに集まる。

「えっ、ちょっと待ってください! いやいや、人違いでしょう! 私はそんな……」

 マキビは慌てて両手を振ったが、笠の下からじっと見つめる河童の視線に耐えられず、ついに観念したように笑った。

「いやぁ、ちょっとした実験だったんですよ。“きゅうりで記憶はどこまで飛ぶか”って」

「遊びで人の記憶を飛ばさないでください。」

高道がきっぱりと突っ込む。

河童は腕を組み、深々とため息をついた。

「……全く、とんだ陰陽師だな。しかしまぁ……」

そう言って河童はきゅうりを一本かじり、口元をにやりとゆがめる。

「おかげで私は“最高の食卓”に出会えた。許してやるとしよう」

するとマキビは両手を合わせて、子供のように笑った。

「よかったぁ! じゃあ、次は“ナスでどこまで忘れるか”試してみます?」

「懲りてませんね!」

「今度こそやめてください!」

三人の笑い声が川辺に響き、鷺がばさりと羽ばたいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ