第72話『川辺にて、きゅうりと護符と――』〜昼餉に記憶を添えて〜
川面にゆらゆらと光が踊る。昼下がりの江戸異界、ことのは堂の高道は、店先に腰をおろして文を書いていた。
「人は、誰と一緒に食事をするかで、食べ物の味や相手の印象すら変わる――これを心理学で『ランチョン効果』と呼ぶ。」
と、独り言のように筆を走らせていると、川下から笛の音が響いた。
音の主は、笠をかぶった妙に気障な河童であった。
「……おや、昼餉の香り。どうやら君のところで、最上のきゅうりに出会えると聞いたのだが?」
しゅるりと登場したその河童、どこか余裕たっぷりの笑みを浮かべ、腰にさした旅袋を揺らしている。
「また妙な噂ですね。うちは雑貨屋であって、八百屋ではありませんよ」
「ふむ、多雑なものもきゅうりも似たようなもの。どちらも心を潤すのだろう?」
河童は気障な調子で言い、ことのは堂に上がり込んだ。
そこへ、もうひとりの常連――マキビが現れた。いつも猫のように笑う陰陽師で、今日も左の八重歯を覗かせて楽しげである。
「おやおや、高道どの。珍客ですね」
「マキビさん、止めてくださいよ。他人事みたいに笑っていないでください」
「いやいや、昼餉を共にすれば万事うまくいくものですよ」
そう言ってマキビは持参した包みを広げる。中からは握り飯と焼き魚、そして――瑞々しいきゅうりが。
「なっ! そのきゅうりは……!」
河童の目が怪しく光る。
ーーーーーーー
三人は、なぜか縁側で昼餉を共にすることになった。
香ばしい魚の匂い。涼やかなきゅうりの歯ごたえ。
談笑のうちに、気障な河童の言葉は柔らぎ、気がつけば高道とマキビに「いや、君らといると悪くない」と笑みを見せていた。
「ほらな、高道どの。食を共にすれば、相手の印象は良くなる」
「確かに、学問の理を身をもって証明されましたね」
――と、その時。
河童が急に額を押さえた。
「……ん? 私、なぜここに……? 記憶が……」
顔色を変えた河童に、高道は息を呑む。
「もしかして……あなた、記憶を失っているのでは?」
マキビはにやりと笑った。
「そうそう。思い出してきたでしょう? あなたが『最上のきゅうり』を求めて旅をしていたわけを」
河童は断片的に思い出す。
数日前、怪しげな屋台で振る舞われた胡瓜汁――。
それを食した途端、旅の目的も、己の名すら霞んでしまったのだ。
「そうか……私は……記憶を戻すために、最上のきゅうりを……」
「なるほど、伏線がつながりましたね」
高道はうなずき、紙片を取り出す。
そこには護符の文字。
「食と共に心を結ぶ『縁結び護符』。これを握り飯に忍ばせておいたんです」
「な、なんと……!」
そう、マキビが差し出した昼餉はただの食事ではなかった。
護符と共に味わうことで、心の結び目が解け、河童の失われた記憶を呼び覚ましたのだ。
「ふふ、つまり私は……護符と食事に救われたわけか」
河童は笠を傾け、どこか照れくさそうに微笑む。
「きゅうりだけを追い求めていたのに……結局、大事なのは“誰と食べるか”だったのだな」
その言葉に高道は深くうなずいた。
「まさしくランチョン効果です。食卓を共にした仲は、ただの味を超えて心を結ぶ。――あなたの旅も、そこから始まるのかもしれません」
河童は少し気障に、しかし今度はどこか素直に答える。
「ならば、君らとの食事こそが、最上のきゅうりだったということだ」
マキビは八重歯を覗かせ、楽しげに笑った。
川面には夕陽が差し、三人の影を染め上げていた。
ーーーーーーー
数日後。ことのは堂の縁側で、再び三人はお茶を囲んでいた。
「いやぁ、すっかり記憶も戻ったし、改めて礼を言おう」
河童は涼しい顔で頭を下げる。
「いえ、お役に立てて良かったです」
高道はにこやかに応える。
すると、高道が茶碗を揺らしながら、眉根をひそめた。
「……でも、不思議だと思いませんか?」
と高道。
「記憶を失うほど怪しげな“きゅうり汁”を、いったい誰があなたに振る舞ったのか」
「……!」
河童の目がぎょろりと光る。
「そういえば……あの時の屋台の主、妙に八重歯が覗いていたような……」
全員の視線がマキビに集まる。
「えっ、ちょっと待ってください! いやいや、人違いでしょう! 私はそんな……」
マキビは慌てて両手を振ったが、笠の下からじっと見つめる河童の視線に耐えられず、ついに観念したように笑った。
「いやぁ、ちょっとした実験だったんですよ。“きゅうりで記憶はどこまで飛ぶか”って」
「遊びで人の記憶を飛ばさないでください。」
高道がきっぱりと突っ込む。
河童は腕を組み、深々とため息をついた。
「……全く、とんだ陰陽師だな。しかしまぁ……」
そう言って河童はきゅうりを一本かじり、口元をにやりとゆがめる。
「おかげで私は“最高の食卓”に出会えた。許してやるとしよう」
するとマキビは両手を合わせて、子供のように笑った。
「よかったぁ! じゃあ、次は“ナスでどこまで忘れるか”試してみます?」
「懲りてませんね!」
「今度こそやめてください!」
三人の笑い声が川辺に響き、鷺がばさりと羽ばたいた。




