第69話「熊手と涙」〜最後の一歩がすべてを決める〜
朝のことのは堂。障子を透かす光が畳に模様を描く。僕――高道は、湯呑みを手にしながら小さく伸びをした。
「ふあぁ……今日も平和だ」
そう呟いたところで、戸口がどんどん叩かれる。
「ごめんくだされーっ!」
現れたのは、異様なほど大きな熊手を肩にかつぎ、風のように駆け込んできた妖怪虎隠良である。
「高道殿! 一大事じゃ!」
「……毎度のことながら、君が走って来ると町内が台風みたいになりますね」
「そんな悠長な! 町の人々が、わしを“嫌な妖怪”と呼ぶのじゃ!」
「……まあ、その熊手を持って千里を走る姿は、確かにちょっと怖いかもしれません」
虎隠良は熊手を振り回しながら、畳にどさっと座り込む。
「わしは悪さなどしておらん。ただ道端に落ちた落ち葉を片っ端からかき集めておっただけじゃ。それなのに、“最後の最後に嫌な奴を見た”と皆が噂する。どうにも納得がいかぬ!」
僕は苦笑しながら湯呑みを置いた。
「なるほど。では“ピーク・エンドの法則”の話をしましょうか」
虎隠良が首をかしげる。
「ぴーくえんど?」
「人の記憶は、出来事全体ではなく“最も強く印象に残った瞬間”と“最後の瞬間”で決まってしまう――そんな心理の傾向です」
「ほほう?」
「たとえば、君が町を走る姿を見た人が“砂埃まみれになった”とか“熊手で転びかけた”といった強い印象を持ったら、それがピーク。さらに最後に『うわ、嫌な奴だ』と感じれば、全体が“嫌な妖怪”で記憶されてしまうのです」
虎隠良は大きな目を丸くした。
「なんと! わしの善行は、最後の一瞬で帳消しか!」
「ええ。でも逆もあるんですよ。最後を良い印象で締めくくれば、それだけで全体が良い思い出になるんです」
ーーーーーーー
それから僕と虎隠良は、町を一緒に歩いた。
彼は相変わらず千里を走る勢いで駆け出しそうになるが、僕が袖を引っ張って止める。
「落ち葉を集めるのもいいですが、最後に笑顔を置いていきましょう。ほら、この飴玉を子どもに配るとか」
「おお! わしが飴玉を!?」
ところが、彼は豪快に熊手ごと飴玉を差し出すので、子どもたちは泣いて逃げた。
「うぅ……余計に嫌われたではないか!」
「だから言ったでしょう。やり方が肝心なんです」
夕方、町外れで小さな出来事が起こった。
転んだ子どもが泣きべそをかいている。虎隠良は迷わず駆け寄り、熊手をぽんと地面に置き、そっと子どもを抱き起こした。
「大丈夫かの?」
子どもは涙をためながらも小さく頷いた。
僕は横から囁く。
「ほら、今が“ピーク”です。優しい姿が強く印象に残る」
虎隠良はおそるおそる飴玉を差し出した。熊手は置いたまま、両手で。
子どもはきょとんとし、次いでにっこり笑った。
「ありがとう! おっきな人!」
その一言に、虎隠良の顔がぱぁっと輝く。
ーーーーーーー
夜。ことのは堂の縁側で、僕と虎隠良は風に吹かれていた。
「今日は……最後に笑顔を見られた気がするの」
「ええ。人の記憶は“最後の印象”で形づくられます。君の今日の記録は“怖い妖怪”じゃなく“優しい熊手の妖怪”として残るでしょう」
虎隠良はしばし考え、ぽつりと呟いた。
「……小さな出来事で、こうも変わるのか」
「そう。日常の端っこにある小さな非日常が、全体の意味を塗り替えることがあるんです」
彼は熊手を見つめ、少し照れくさそうに笑った。
「ならば、これからは走る速さより、最後の一歩を大事にするか」
「いい心がけです」
僕らは夜空を仰いだ。江戸の町の上に、星がぽつぽつと瞬いている。
今日という一日も、最後に笑って終われば、きっと良い思い出として残るだろう。




