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第68話「涙の処方箋」〜犬神の風邪と江戸の夕暮れ〜

ことのは堂の戸口を叩く音が、やけに間延びして響いた。

「ごめんくださーい……」

覗いてみると、白い着物に童顔の子供――白児(しらちご)が立っていた。小さな体に柴犬のような柔らかい犬耳がぴょこんと立ち、黒く大きな瞳はうるうると潤んでいて、思わず守ってあげたくなる愛らしさだ。白児は震える声で小さく頭を下げ、江戸の夕暮れに溶け込む影の中でも、存在感だけがひときわ輝いていた。犬神の眷属としての気高さも、まだ幼い仕草に隠れている。

「こんにちは、今日はどうされたんですか?」

「その……ご主人様が風邪をひきまして。薬を、ください」

僕は首をひねった。犬神といえば江戸の町で疫病を司る、つまり病を振りまく神様だ。そんな御仁が風邪? なんという皮肉だろう。

「……風邪薬、ですか」

「はい、鼻水ずるずるで寝込んでおりまして」

白児が袖で鼻をこする。なぜか代理の彼までうつされている気配がある。

「うーん……残念だけど、犬神さま用の薬はここにはないんだ」

白児は小さく肩を落とし、耳をぴくぴくさせながらうつむく。

「そ、そうですか……ごめんなさい、ぼく、何もできなくて……」

「いや、謝らなくていいよ。君だって必死で来てくれたんだろ?」

僕はにっこり笑い、白児の目を覗き込むと、うるうるした瞳がこちらを見上げてきた。

「じゃあ、僕たちで大天狗さまに相談してみよう。君のご主人さまを助けよう。」

白児は小さく頷き、犬耳をぴょこんと動かした。「はい……お願いします、ぼくもお手伝いします!」

僕は白児の頭を軽く撫で、江戸の町の夕暮れに向かって二人で歩き出した。


僕と白児は、ことのは堂を出て江戸の町を抜け、山道を少し登ったところにある大天狗の社を目指した。風に揺れる松の葉のざわめきや、夕陽に染まる石段を踏みしめながら、白児は小さく犬耳をぴくぴく動かす。

「大天狗さま、お願いがあります!」

白児が声を震わせながら頭を下げると、僕も一歩前に出て深く礼をした。

社の奥で、大天狗は悠然と羽のように広がる扇をひらりと振ると、にこりと笑った。

「おお、高道……久しぶりだの。元気にしておったか」

僕は少し照れながらも会釈する。

「お久しぶりです、大天狗さま」

大天狗は目を細め、鼻を鳴らした。

「犬神の風邪を癒やす薬か。それなら調合できんこともない」

白児の目が輝く。

「本当ですか!」

僕もほっと胸をなで下ろした。

「ただし材料がいる。――犬神と同じ症状を持つ人間の涙じゃ」

白児は少し顔をこわばらせ、犬耳をぴくぴくさせた。僕はその横で深く息をつき、覚悟を決める。これが、我々の小さな冒険の始まりだった。

僕は思わず固まった。

「人間の涙……それはまた難しい」

「難しいほど面白かろう」

天狗はにやりと笑った。



江戸の町を歩き、僕はあちこちで「風邪ひきはいないか」と聞いて回った。

だがみな元気で、むしろ僕が怪しまれる始末だ。

「ことのは堂の高道が風邪患者を探すなんて変じゃないか?」と噂される。


やっとのことで、道端で鼻をぐすぐすいわせている魚屋のお兄さんを見つけた。

「お願いです、ちょっと涙をいただけませんか」

「な、涙? なんだそりゃ!」

当然拒絶され、僕は頭を下げながら必死で説明した。

「いや、その……犬神さま用の薬の材料で、ちょっとだけ……」

白児も横で小さく頷く。

しばらく沈黙が続いた後、魚屋の兄さんは顔をほころばせた。

「……わかった、協力してやろう。でも、今すぐ涙は出ねぇぞ。泣くにはそれなりの理由がいるんだ」

僕は深く息をつき、肩を落としながらも希望の光を感じた。

「はい、わかりました! 待ちます。ちゃんと理由を作って、涙を出してもらいます!」

白児も犬耳をぴくぴく動かしながら、小さく「はい」と応えた。


僕たちは魚屋の兄さんの前でじっと待った。白児は小さく耳をぴくぴく動かし、僕も手を組んで顔を見つめる。しかし、時間が経っても鼻をすすっているだけで涙は出ない。


仕方なく、僕は考えを変えた。

「人は強い刺激で涙を流す……なら、落語で笑わせるとか、辛い物を食べさせるとか」

魚屋に唐辛子を食べさせたところ、たしかに涙が出た。しかしそれは「犬神と同じ症状の涙」とは言えまい。

焦れば焦るほど、僕自身がくしゃみをしはじめた。

「……あれ? 鼻水が……」

どうやら町中を駆けずり回っているうちに、風邪をもらってしまったらしい。

白児が慌てる。

「た、高道さままで鼻声に! これじゃ“ミイラ取りがミイラになる”です!」

僕は苦笑した。

「まさに心理学で言うところの現象ですね。人を救おうと奔走するあまり、同じ状況に巻き込まれてしまう。観察者が対象に同調し、やがて自分が陥る……」



結局、涙はどうなったか。

僕自身の目から、自然と涙がこぼれ落ちていた。鼻づまりと咳で苦しくて、気がつけば涙目になっていたのだ。

「これ……僕の涙ですが、犬神さまと同じ症状になった今なら条件に合うはず」

白児が小瓶に涙を受けとめ、大天狗のもとへ走る。


ほどなく薬は調合され、犬神の寝床に届けられた。

布団の中から覗いた犬神は、青白い顔で薬を飲み、やがて少し楽そうな息をついた。

「おお……効いたわ。人間の涙から作るられるとは不思議なものよ」

そしてこちらを見てにやりと笑う。

「だが、おぬしも同じ病をもらっているな?」

「ええ、まさに“ミイラ取りがミイラになる”でした」

「ふふ、疫病を司る神に近づこうとしたのじゃから、当然の報いじゃ」


り、理不尽…そう言われても、なんとなく温かい気持ちがした。

犬神が治れば、町に流行る風邪も静まるかもしれない。僕の鼻声も、いずれ治るだろう。



夜、ことのは堂に戻った僕は布団に倒れ込みながら笑った。

「結局、自分で涙を流すことになるとは……」

白児が枕元で小さく囁いた。

「でも、主人は元気になりました。ありがとうございました。言伝を預かっています。いつか必ず恩は返す、とのことです。」

僕は鼻をかみながら、ほっと胸をなで下ろした。

「やれやれ……まあ、悪くない結末だな」

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