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第63話「金の鎌か銀の鎌か」〜夏の終わりの地獄の社畜〜

夏の終わり、ことのは堂の縁側には夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。

「……ふう、疲れたな」

目の下にクマを作り、顔色の悪い男が膝を落とす。背広姿で書類を抱えたまま、地獄の社畜──死神だった。

「だ、大丈夫ですか? 顔色が悪いですね」高道はお茶を差し出しながら声をかけた。

死神は肩をぐったり落とし、目の下のクマを揉みながら、ため息をついた。

「……もうヘトヘトでしてね……8月だけで999の命を回収し、残業も山ほどこなしたというのに、上司から『夏の終わりにもう一つ命をもらってこい』と言われまして……」

小さな溜め息が風に混ざり、まるで砂時計の砂がこぼれるように、疲労感だけが漂っている。

それでも死神はどこか間抜けな顔で、高道を見つめる。

「もう、私だって人間並みに休みたいんですけど……」

死神は肩を落とし、書類を抱えた手が微かに震えた。

「それで、金の鎌か銀の鎌か選べと……。どちらを持っていくべきか、と」

高道はくすりと笑った。

「なるほど、それこそ心理学でいう質問バイアスですね」

「質問バイアス?」死神が首を傾げる。

「はい。質問の仕方ひとつで、人は無意識に答えを誘導されます。『金の鎌か銀の鎌か』と聞かれれば、金は価値がありそう、銀は二次的、と脳が判断してしまう。自由に見えても、質問自体が心を誘導しているんです」

死神は鎌を手に取り、左右を見比べた。夕日の光が金色と銀色を反射する。

「……なるほど、確かに金の鎌の方が魅力的に見えてきた……」

「それがバイアスの力です」高道はにっこり笑う。

「でも、認識すれば自分の判断に置き換えることもできます。焦らず、冷静に」

死神は鎌を握りしめたまま、ふうとため息をついた。

「……いや、どうしよう……期限が迫っている。命を、ここで……」

高道は素早くお茶碗を取り、笑みを浮かべて差し出す。

「どうぞ、まずは落ち着いてください。命の代わりに、温かいお茶でもいかがですか?」

死神は目を丸くした。

「……は?」

「ほら、焦って即答する必要はありません。こうして一息つけば、心も整う」

茶を一口すすると、死神は肩の力が抜け、顔色も少し戻った。

「……あ、あれ? わ、私、今生きてる……」

高道は縁側でくすりと笑い、茶をすする。

「無理に命を回収する必要はありません。美味しいお茶を飲むだけで、ほら、双方に損なく状況を整えられるのです」

死神は鎌を抱えたまま立ち上がる。

「……なるほど、質問の誘導で自分の意思が歪められていたんですね」

「ええ」高道は茶碗を置き、静かに夕日を眺める。

「質問バイアスに気づけば、選択の自由を取り戻せます」

ふと、庭の水たまりに映る夕日が鎌に反射し、金銀の光が波のように揺れた。

死神は金の鎌を手に取り、深く息をつく。

「……なら、やはり金で行きます」

「それでいいんです。選んだのはあなた自身。バイアスに誘導されていると気づきつつも、自分の選択として納得できた」

「……ああ、少し、気が楽になった気がする。高道殿感謝する。」

死神は鎌を抱え、書類を背負いながら縁側を後にした。


死神は帰り道でふと空を見上げた。

「……夏の終わりの夕日って、地獄でも懐かしく見えるものか……」

金の鎌を抱えた手が、微かに夕陽の光を反射する。

高道は縁側で茶を啜りながらつぶやいた。

「質問バイアスに気づけば、誘導されても納得の選択ができる。それを知るだけで、人生は少し楽になるんです」

波音と蝉の声、そして茶の湯気。


死神は鎌を抱え、深く息をつく。

「……さて、明日からも上司の誘導に負けないようにしよう。私は私の目指す死神道を行く!」



縁側にひとり残った高道は、深く息を吐いた。

「ふう……やれやれ、なんとか誤魔化せましたね……」

手に残る茶碗をじっと見つめる。死神の目は鋭いと聞いていたし、命を差し出すよう迫られた瞬間は、心臓が凍るようだった。けれど、落ち着いてお茶を差し出した自分の判断が功を奏し、危うく逃れることができたのだ。縁側に漂う湯気が、まるで安堵の息のように柔らかく立ち上る。

背後から庭の蝉の声と夕暮れの風が通り抜けるたび、高道の肩の力が少しずつ抜けていった。金の鎌を抱えて去った死神の姿を思い浮かべると、あの冷や汗と緊張が、今はほんの遠い記憶のように感じられる。

「茶一杯で命を救えるなんて……まさか、僕もなかなかやるな」

小さく苦笑いしながらも、心の奥底にほっとした温もりが広がる。今日のことは、ぎりぎりの危機を笑い飛ばした小さな勝利だった。

高道は縁側に腰を下ろし、茶をすする。夕陽に照らされた湯気が、まるで自分の息を祝福するかのようにゆらゆら揺れている。

「さて……これで、今日の危機はおしまいだな」

安堵の重みを噛みしめつつ、夕暮れの庭に静かな笑みを浮かべた。

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