第62話『潮騒の記憶喰い』〜潮風に揺れる記憶と恥の夏〜
夏の終わり。
ことのは堂の面々は、浜辺にやってきた。
「海水浴! わたし、ずっと来てみたかったんだ!」
座敷童が浮き輪代わりの竹の輪を抱えてはしゃいでいる。
「……それ、絶対沈むと思いますよ」
高道が苦笑した。
その姿は、いつもの着物ではなく――鮮やかなピンク色の水着。
まだ幼さを残す小柄な体に、ひらひらと小さなフリルがついていて、まるで花びらのように波の風に揺れる。
白い砂浜と陽射しに映えて、座敷童の笑顔がさらにいっそう輝いて見えた。
潮風を切るようにして現れたのは、銀の髪をなびかせる青年――朧丸。
白い肌に、切れ長の瞳。日差しを受けるたびに、その輪郭が艶やかに浮かび上がる。砂浜に立つ姿は、まるで絵巻から抜け出した神将のようで、人々の視線が自然と集まった。
「……海か。記憶のざわめきが、やけに耳につく」
低く響く声はどこか憂いを帯びていて、聞く者の胸をざわつかせる。
「ねぇ、一緒に泳ごうよ!」
座敷童が無邪気に手を引こうとするが、朧丸は首を振った。
「いや……俺はここでいい」
「なんで? 泳げないの?」
「泳げる。……だが、海は記憶が濃い。笑い声や歓声が、波に混じって押し寄せてくる。集中できなくなる」
座敷童の無垢な問いに、朧丸の銀髪が海風に揺れる。彼の切れ長の瞳がわずかに細まり、口元に微妙な困惑が漂う。
「……いや、俺は水に触れると、つい記憶を食べちゃうからな……」
座敷童は首をかしげ、竹の輪をぷかぷか揺らす。
「え? 海で記憶食べるの?」
「泳ぐどころか、波に触れただけで昨日の晩ご飯の味まで思い出すんだ……」
雪女がにやりと笑った。白いビキニが透き通る肌に映え、冷たい潮風にさらりと揺れる。波打ち際で光を受けて、淡い光沢を帯びた布地がほんのりと輝き、胸元や肩のラインが涼やかに強調される。
「ふうん。つまり……恥ずかしいんでしょ?」
朧丸は思わず手を腰にやり、顔を真っ赤にして声を上げた。
「ち、違う!」
朧丸の頬は熱く、目は泳ぎ、座敷童は竹の輪ごしにくすくす笑う。
砂の上で波しぶきが跳ね、雪女のビキニ越しに見える白い肌と、朧丸の狼狽が相まって、夏の海の賑やかさと緊張感が一気に弾けた。
結局、海に飛び込んだのは座敷童と雪女だけだった。
座敷童は水をばしゃばしゃとかけ、雪女の周囲には瞬時に氷が張る。
「冷たすぎ!」
「私には心地いいの」
朧丸は浜辺に腰を下ろし、潮風に髪を遊ばせながら視線を逸らした。
その横顔は涼やかだが、わずかに緊張が走っている。
高道が隣に座り、穏やかに声をかけた。
「入らないんですか?」
「……俺は記憶を喰う妖怪だ。海に入れば、きっとまた“誰かの笑い声”を喰っちまう。そうなったら……」
「なるほど。」
高道の目が細められる。
「人は失敗を見られるのが嫌で、恥ずかしさから行動を避ける。これを“恥回避バイアス”といいます」
朧丸は思わず視線をそらした。
「……俺が?」
「ええ。『記憶が濃すぎるから集中できない』って理由をつけたのもそうでしょう」
図星を突かれ、朧丸の喉がひくりと動く。
「……正直に言えば……俺は、泳ぎが下手だ。人前で情けない姿をさらすのは……どうにも気が進まない」
その瞬間、海の上で座敷童が大声をあげた。
「見て見てー! 浮いてるー!」
実際は足がついていた。
雪女が冷たく突っ込む。
「立ってるだけじゃない」
高道は優しい目を座敷童に向けて笑った。
「ほら。失敗したって、笑い合えるんです。恥を恐れずに飛び込めば、案外楽しいものですよ」
朧丸はしばし黙り、海を見つめた。
銀髪が夕日に照らされ、まるで炎のように輝いている。
「……笑われるのは、怖い。だが――怖さごと呑み込むのが俺の性分だ」
そう言って、朧丸はゆっくりと波へ踏み出した。
――ざぶん!
派手に転び、盛大に沈む。
「おぼろまるー!」
座敷童が慌てて手を伸ばすと、朧丸は全身びしょ濡れで、海水をはじくように咳き込みながらも不敵に笑った。
銀色の髪は濡れて束となり頬に張りつき、光を受けて艶やかに輝く。
水滴が肩や鎖骨を滑り落ちるたび、その横顔の輪郭が際立ち、座敷童も雪女も思わず目を奪われる。波音に混じる咳と笑い声が、夏の浜辺に独特の緊張感を生んだ。
「……たしかに。恥よりも、涼しさの方が勝るな」
雪女が小さく頬を染めながら微笑む。
「ほらね。冷たいのも、悪くないでしょう?」
⸻
夕暮れ。
四人は並んで砂浜に腰掛け、茜色の海を見つめていた。
高道が口を開く。
「人は誰でも、恥を避けようとします。でも、避けすぎると本当にやりたいこともできなくなる。今日の朧丸さんがそうでした。恥を恐れずに飛び込めば、新しい楽しさを知ることができる」
「……なるほどな」
朧丸は濡れた髪をかき上げ、夕陽に照らされた瞳を細めた。
艶やかに濡れた頬を伝う水滴が、まるで宝石のように輝く。
「この感情ごと、俺は忘れない。潮騒の熱も、笑われた痛みも……全部、喰ってやる」
座敷童がにこにこしながら貝殻を差し出す。
「朧丸ー、これおみやげ!」
朧丸はそれを受け取り、ふっと色気を含んだ笑みを浮かべた。
「……こんな記憶なら、いくらでも喰いたいものだ」
潮騒と笑い声が重なり、夏の終わりを優しく包み込んだ。




