第60話「顔のない夜に、君を誘って」〜狐と兎と、百面の夜〜
「なあ、高道。今夜さ、百面まつりに行こうぜ」
ことのは堂の縁側で、唐突に朧丸がそう言ったのは、蝉の声が一段落した涼やかな夕方だった。
「……仮面をつけた男女が集う、あの祭りですか。顔見せしない1日だけの恋人探しの縁日ですよね。進んで行きたくはないですが…」
「そ?面白そうだろ?」
「僕は顔出しして生きていますので……」
「だから顔出さなきゃいいだろ」
朧丸は、どこからか取り出した包みをひらりと掲げた。
薄紙にふわりと包まれたそれは、仮面とはわかるものの、どんな意匠かは見えない。
まんまと乗せられる形で、高道もまた、目の前に置かれた小ぶりな包みに手を伸ばす。
指先に伝わるのは、なめらかな紙と、その内側に確かに感じる面の丸み。
「……仮面なんて被って、祭りの会場で会えなくなかったどうするんですか」
「ま、大丈夫だろう、俺ならすぐ高道がわかる。じゃあ、後で祭り会場で会おう」
朧丸は顔をくしゃっとさせた人懐っこい笑顔でことのは堂を後にした。
「……薄紅色、かな?」
ほんのり透けた紙越しに、かすかに色だけが感じられた。
包みをそっと開くと、現れたのは、顔の上半分だけを覆う不思議な仮面だった。
額から鼻梁の途中までをなめらかに包むその面は、薄紅色の地に、まるで夕暮れ時の空が頬を染めたような淡い桃色の濃淡が差していた。
左右のこめかみにかけて伸びる柔らかな曲線は、花弁の縁のようにかすかに波打ち、動くたびに光を柔らかく返す。
眉のあたりには、桜色をふくむ金の砂が控えめに散らされ、見る角度によって、仮面が表情を持ったかのように揺れる。
目元の切れ込みはしっとりと細く、まなざしをすべて包み隠すのではなく、その奥にある想いを、逆に強調するかのようだった。
下半分が露わであるがゆえに、この仮面は“隠す”と“見せる”のはざまで、ひそやかに揺れていた。
――口元の微笑みはそのままに、けれど頬の色は仮面が語る。
それはまるで、「ほんとうの心は、隠しきれないもの」とでも言いたげに、夜風の中にひっそりと佇んでいた。
夜。小道を抜けた先、竹灯籠が並ぶ広場に提灯が揺れ、ざわざわと声が交錯する。
誰もが“面”をつけ、顔を隠し、仮の名で語りあっていた。
目元だけを覆う者も口元も覆う者、声を変えている者もいる。
妖怪も人も関係ない――ただ、面の奥に何があるかだけが問われる夜。
(面は表情を隠すから、言葉がストレートになるんだよなぁ)
高道は静かにその場の熱気を感じ取っていた。
周囲は提灯の火に照らされて揺れ、人々の笑い声が重なっていた。
そんな時。
「そこの“面影”さん……私と、少し歩いてみませんか?」
声がした。振り向くと、そこには赤いウサギの面をつけた着物姿の女性が立っていた。
声に聞き覚えはなかった。けれど、上品な仕草と佇まいから、どこか由緒ある家の娘のように見えた。
「ご一緒しても?」
「……なぜ僕を?」
「お面越しでも、目が優しそうだったから。冷たそうで、でも本当はあたたかそう。私、そういう人が好きなの」
高道は一瞬、言葉に詰まった。
仮面の下の目を見透かされた気がした。
けれど、ふと背後から聞き慣れた声がかぶる。
「おーい、“面影”さん! 誰かにさらわれるなよ!」
その声が風を裂いた瞬間、夏の夜の喧騒が一拍、静まったように感じられた。
カランコロンと下駄の音が近づく。色とりどりの灯籠の明かりが、ゆらりと誰かの影を連れてくる。
金と青の装飾が施された狐面が、夜の屋台の灯りを反射してきらめいた。
それは、どこか西洋の風も感じさせる異国めいた意匠だった。流れるような金の曲線が、月明かりに淡く輝いている。
その仮面の男が、するりと間に割って入ってきた。
「あら、あなたは……」
思わず仮面の奥から声がもれる。
「“影法師”ってんだ。こいつの友達でね、ちょっと借りたいんだ。悪いね」
狐面の男――朧丸が、さも当然のように高道の手を取った。
その手は、少しひんやりとしていて、どこか懐かしい温度を宿していた。
その瞬間、屋台から流れていた三味線の音が風に乗って響いた。
香ばしい団子の匂いと、紙灯籠の熱が、ふたりの間を包み込む。
空には、ひときわ大きな花火が打ち上がり、音もなく咲いては散っていった。
高道はちらと振り向いたが、仮面の奥で何を思ったのか――そのまま黙って、朧丸に手を引かれていった。
まるで、仮面の奥にある「面影」までも連れ去られていくような、不思議な静けさのなかで。
「えっ……」
ウサギ面の女性は驚いたが、やがてくすりと笑って一礼した。
「ふふ。人気者ですね、“面影”さん。……よい夜を」
彼女は振り返り、灯籠の向こうへ消えていった。
「……なんなんですか、あなたは」
「先約してただろ?“面影”さん。」
二人は、仮面をつけたまま並んで歩き出した。
夜の通りは、ちょうちんの灯りでやさしく照らされていた。
屋台がずらりと軒を連ね、金魚すくいや飴細工、わたあめの甘い香りに、妖怪も人も、笑い声を交わしながら行き交っている。
誰もが仮面をつけていて、面の奥にある本当の自分を、ちらりとも覗かせない。
その中を、二つの仮面がゆっくりと並んで進んでいく。
一方は薄紅の桜、もう一方は、金と青の線で描かれた狐。
「仮面をつけると、ずいぶん強引になるんですね」
と高道が言えば、
「素じゃできねえことも、面をかぶるとできるってのが、この祭りの特権だろ?」
と朧丸は笑う。祭囃子が、ちょうどその返事に合わせるように高く鳴った。
「……まったく。あなたがこんなに“強引な仮面”だったとは」
すれ違ったお面屋の屋台から、ひょっとこと天狗がこちらをじっと見ているようで、高道はわずかに視線をそらした。
「そっちだって、誘われてまんざらでもなさそうだったくせに」
朧丸の言葉に、高道は片眉をわずかに上げる。ちょうど、提灯の明かりがその横顔を照らし、白木のように滑らかな肌を仮面の端から浮かび上がらせた。
「仮面越しに“人を見ようとする力”には、敬意を表したいとは思いました」
「そーいう言い回しが、お前のズルいとこなんだよな」
朧丸は肩をすくめた。けれど、その声には、いつもより少し照れくさそうな響きが混じっていた。
二人の背後では、子どもたちが色とりどりの面を抱えてはしゃぎ、屋台の明かりが、夜空に揺れるようにきらめいていた。
百の面が行き交い、百の素顔が隠されるその通りで、彼らだけが、仮面の奥で少しずつ、心をさらけ出し始めていた。
二人は歩きながら、提灯の道を抜けていく。
途中、誰かが面を外し、どこかへ連れ立って消えていく姿も見えた。
まるで、選ばれた者だけが抜けていく“結界”のようだった。
「なあ、高道。俺と抜けてくれるか?」
仮面越しに手が差し出される。
「……仮面を外さずに?」
「外したくないんだろ?」
面のまま、二人は小道を外れ、林の奥へ抜ける。
夜の気配、虫の声、遠ざかる灯籠の明かり。
風がそっと仮面を揺らした。
やがて、提灯の光も届かなくなった場所――
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翌朝、ことのは堂の縁側で。
「……ねえ、朧丸。高道が昨夜、赤いウサギ面の女の人と話してたって聞いたよ〜?」
マキビが茶をすすりながら、にやにや笑った。
「へえ、それ誰から聞いた?」
「お喋りシジミ」
「あいつ、しっぽ焼くぞ」
高道はと言えば、静かに湯飲みを持ち上げ、
「面の下のことは、誰にも話さないのが礼儀です」
とだけ、淡く笑った。




