第6話「雪女、湯呑みを凍らす」~感情が出るのは、当たり前だもの~
ことのは堂。今日は、やけに寒い。
火鉢を炊いても足元がじんじん冷える。炭も新しくしたのに、空気の芯から冷えている感じだ。まるで冷蔵庫を開けっぱなしにしたような空気。
(ん? もしかして……火鉢に冷却機能ついてる?)
そんなバカな。自分で自分にツッコミを入れていると、戸が、きぃ……と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、一目でわかる“特別な客”だった。
肌は雪のように青白く、長い髪も真っ白。そして、鼻の頭だけがほんのり赤い。寒さではなく、きっと緊張でそうなっているのだろう。
「ど、どうも……あの、相談、してもいいですか……?」
声はかすかに震えていた。寒さのせいか、心の奥に何かを抱えているのか。
──雪女である。
その瞬間、注いだばかりの湯呑みのお茶が、みるみるうちにシャーベット状に凍った。
(冷蔵庫どころか、冷凍庫本人が来たな……)
火鉢の炭が、ひゅっと小さく縮こまった気がした。
雪女は、ことのは堂のちゃぶ台にそっと座った。けれど、彼女のまわりだけ、畳がうっすらと白く霜に覆われていく。
「えっと……その、私、最近……人間と距離ができちゃってて」
「ほう」
「いろいろやっても、“冷たい人”って言われちゃうんです……でも……感情を出すと、もっと迷惑になっちゃって」
彼女はうつむき、袖で鼻をぬぐった。
──バキィッ!
その袖がちゃぶ台の縁に触れ、瞬時に凍りつき、粉砕した。
「感情って、こわいです……出すと、人を傷つける気がして……」
「ええ、まあ。ちゃぶ台も砕けるくらいですしね」
「ちゃぶ台?」
「……今、見事に砕けました」
「わわっ! ご、ごめんなさい! わたし、ほんとこういうの、制御できなくて……!」
雪女は、わたわたと手を振った。その動きだけで、足元に霜柱がびっしりと立ち始める。
(これはもう、心理的な抑圧というより、天災だな……“注意:低気圧接近中”とか貼り紙した方がいいのかも)
「……でも、怒らないんですね」
「え?」
「ちゃぶ台壊したり、床凍らせたり……普通なら怒られると思ってました。だから、今日も本当は来るの怖かったんです。でも、“ことのは堂は、怒らない”って聞いて……」
「怒りませんよ。……というか、僕が怒ったら、この部屋、永久凍土になりますよね?」
「ぷっ……!」
雪女が、くすっと笑った。
その瞬間、ぽんっと彼女の頭の上に、小さな霰が降った。
(……あ、笑ったら降るのか。感情がそのまま天気になるの、便利というか、扱いが難しいというか)
「……感情、出してもいいんですね?」
「もちろんです。感情は、出さないと身体にも心にもよくないですからね」
「でも、出すと……寒くなりますよ?」
「それなら、前もって“今からテンション上がります”って予告してください。火鉢の炭を倍にして、湯たんぽを配置しておきますから」
「そ、そんな対応まで……?」
「場合によっては、カイロ3個と羽毛布団、あと“あんまん支給”コースもあります」
「えっ、あんまんまで!?」
「“心が冷えたら胃を温めよ”が、ことのは堂のモットーです」
そのあたりでようやく、彼女の表情が少しだけ緩んだ。
「……怒っても、泣いても、笑ってもいいって、誰かに言われたの初めてです」
雪女は、両手を膝の上でぎゅっと握りしめながら、小さな声でつぶやいた。
「たいていの人間も、感情を持ってますよ。出さない人がえらいってわけじゃないんです」
「……でも、“冷たい”って言われると、私が悪いみたいで……」
「それは、あなたが“冷たさ”の中に優しさを隠してるからじゃないですか?」
「……優しさ?」
「人を傷つけたくないって気持ちが強すぎて、自分の感情を閉じ込めてきた。その“冷たさ”は、“優しさ”の裏返しですよ」
彼女の目が、わずかに見開かれる。
やがて、ほんのりと頬が桜色に染まった。
──室温、2℃上昇。
「……なんか、溶けてきました」
「ええ、僕の言葉、あったかいので」
「自分で言う!?」
「言霊は直発火式です」
雪女が、もう一度くすくすと笑った。
今度は、霰の代わりに、天井からほんの少し光が差し込んだような気がした。
その日から、雪女は「感情を出す練習」を始めることにした。
まずは、「今からテンション上げます」と宣言してから、少し笑う。
「ほら、見てください! これ、さっきのお茶、凍らせずに飲めました!」
「すばらしい。そして君の半径30センチだけ、床がちょっと凍ってる。進歩ですね。二歩前進、一歩凍結」
「ちょっとだけです! 前は部屋全体が氷漬けでしたから!」
「たしかに……最初に来たときなんか、僕の靴下が凍って立ちましたからね」
「えっ、靴下って自立するんですか?」
「しない。ふつうは、絶対に、しない」
翌日から、町では妙な噂が流れ始めた。
「最近、雪女さんちの玄関前に“感情注意”の札が出てるらしい」
「その日の気温は、雪女さんの感情次第って、天気予報より信頼されてるらしいぞ」
「ていうか、高道さん、冷風対策でミートテック着てるって本当?」
※“ミートテック”とは、人間の体脂肪による自然断熱性能の俗称である(※ことのは堂・用語解説)
そして、彼女は毎日少しずつ、自分の気持ちを外に出せるようになっていった。
ときには、つい感情が高ぶって部屋の空気が冷えたり、畳に霜が降りたりすることもある。だけどそれは──
彼女が“生きてる”証だった。
そして、ことのは堂の火鉢は、今日もまた、静かに灯っている。