第54話「ひと目、逢えたら」〜白き花、もう一度〜
ことのは堂の表に、梅雨の気配を連れて、女がひとり立っていた。
髪は濡れ、顔の半分は黒い布で隠されている。けれど、どこか整った輪郭と、奥底に優しさを宿した瞳。
「……“お岩”と申します。ここで、“顔を戻す術”を、見ていただけると……」
高道は、客用の茶を静かに置いて答えた。
「“戻す”というのは、何を?」
「恨みでも、姿でも、何でも……かつての自分に、戻れるなら」
その声は、怨霊ではなく、ただ一人の“女”のものであった。
夜になり、朧丸がひょっこり顔を出す。
「よお。あれって“お岩”様じゃねえか? 昔、四谷でえらい騒ぎ起こしたって……」
「ええ。噂では“毒を盛られた妻が化けて出た”と」
「でも、あれって本当は……」
「真偽は、彼女にしか分かりませんよ」
高道は机の上の和紙に、何かの図を描いていた。
「……“選択的注意”という現象があります」
「また始まった」
「人は、ある一点に集中すると、それ以外の情報を無視してしまう。例えば……恨みを見つめ続ければ、それ以外の記憶――愛や喜び、信頼まで――見えなくなってしまう」
「……つまり、お岩さんは?」
「恨んでいるのではなく、ただ“恨んでいる記憶しか残せなかった”だけかもしれません」
翌日、お岩は井戸の縁に佇んでいた。
その背を見つめながら、高道は静かに語る。
「お岩さん。もし、目をそらせるなら……恨み以外の何かに、目を向けることはできますか?」
お岩は黙っていたが、やがてふっと笑った。
「……私、あの人と一緒に歩いた道に、白い彼岸花が咲いていたことを、今思い出しました」
「それは、“視点”が変わったからです」
高道は、そっと彼女の手元に一枚の鏡を置いた。
それは、江戸の名工が作ったといわれる、銅製の“逆映しの鏡”。
“人の顔を、心の奥から写す”という、ことのは堂でも特別な鏡だった。
お岩がその鏡を覗き込んだとき、映ったのは――
片方だけゆがんだ顔ではなく、若き日の、幸せそうな表情の自分だった。
涙がぽろぽろとこぼれた。
「……ああ……そう、私……笑ってたんだ……あのとき……」
「過去は変えられません。でも、記憶の“注ぎ口”を変えることはできる」
高道の声に、お岩はそっと頷いた。
鏡を懐に収めたお岩は、立ち上がる。
「もし、あの人にもう一度会えるなら、“ありがとう”って言える気がします」
「きっと、そのときは顔も戻りますよ」
高道が微笑むと、どこからか一陣の風が吹き、お岩の髪をそっと持ち上げた。
黒布が落ちた顔には――以前のような傷は、もう、なかった。
その夜。
ことのは堂の庭に、ぽつんと灯る行灯の明かりの中で、朧丸がぽそりと言った。
「……なんか、泣けるな。あの“お岩”様が、“ありがとう”だと?」
「彼女は選ぶ記憶を変えた。それだけです」
「記憶は選べる、ってか……」
高道は静かに、茶碗を持ち上げた。
「恨みを捨てたわけではありません。ただ、他の想いを思い出しただけ。人はそれだけで、変わります」
ある日。
四谷の路地に、白い彼岸花が咲いた。
そこに立つ影は、もはや幽霊ではなかった。
――かつて、笑った女が、もう一度“歩き始めた”証だった。




