第5話「猫又、膝の上にて」~“いていい”場所なんて、本当はそんなに遠くない~
その猫は、夜の雨と一緒にやってきた。
黒く濡れた毛並み、二股に割れたしっぽ。
瞳だけが金色に光っていて、人間のような憂いを帯びていた。
「……“ことのは堂”って、悩みを聞いてくれるって、聞いたんだけど」
その声は少女のようにも、年老いた婆のようにも聞こえる。
――猫又。長く生きた猫が、妖として変化した姿だ。
(ああ、これは……ひと目でわかる。心が少し、濡れてるな)
「はい、どうぞ。冷えますから、こちらへ」
僕は火鉢のそばに座布団を敷き、熱い茶を差し出す。
湿った夜の空気に、茶の香りがほのかに混じる。
猫又は、しばらく茶碗と俺を交互に見ていたが、おずおずと座布団に腰を下ろした。
「名前は?」
「……“ミメ”。前に飼われてたときに、そう呼ばれてた。今はもう、誰も呼ばないけど」
(……なるほど。“元・飼い猫”か。そりゃ、人の膝も恋しくなるわけだ)
「ミメさん。どうされましたか?」
「……わたし、ね。捨てられたの。飼い主に。“化けた猫なんて、気持ち悪い”って」
ミメは小さな声で、ぽつぽつと語りはじめた。
濡れた毛並みが少しずつ乾き、体温が戻ってくるように、言葉も少しずつ流れ出す。
「化ける前より、ずっと言葉は話せるし、目も良くなったし……。でも、かわいくないって言われた」
しっぽが、しゅんと垂れる。
(うーん……それは……残酷だな。言葉を覚えたことで、傷つく機会も増えたんだろう)
「それから、誰にも甘えられなくなった。……怖くなっちゃって」
(“愛されていた過去”って、本当にやっかいだ。温もりを知ってしまったぶん、孤独が骨身にしみる)
「……あの、甘えていい? 少しだけでいいの。……人の膝、温かいから」
「もちろん」
僕は、そっと膝を差し出した。
ミメは、警戒心をわずかに残しながらも、するりと丸くなった。
その瞬間、ふっと空気が緩む。火鉢の炭が、ぱちん、と音を立てた。
「……高道さん」
「はい」
「どうして、わたしに優しくしてくれるの?」
「“そういう生き物だから”としか言えませんね」
猫に聞かれると、何となく照れくさい。
……いや、照れくさいのは「人に甘える猫又」の姿の方か。
「……ふふ、それはずるい答え」
「それでも、あなたが来てくれたことは嬉しいですよ。……ここに来るのは、勇気が要ることですから」
(弱ってる時ほど、“誰かに頼る”ことが難しくなる。けれど、頼るという行為は、ほんの少しの自己肯定感があればできる)
「……わたし、“かわいがられる”ために生きてきたの。“可愛い”って言われるたび、ああ、生きてていいんだって思えた」
「それは、悪いことじゃありませんよ。誰だって、“愛された記憶”を頼りに生きている」
(むしろ、それがなかったら、人も猫も、たぶん歩けない)
「でも、それがなくなったら……どうやって、生きていけばいいの?」
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
火鉢の上で茶が静かに湯気を立てる。雨音はもう、遠くなっていた。
(さて……どう言えば、この子の目が前を向くか)
少し迷って、俺は答えた。
「“かわいい”を失ったら、“たのもしい”を身につければいい。
“誰かのために”を失ったら、“自分のために”を選べばいい。
大切なのは、“今のあなたを嫌いにならないこと”です」
「……難しいよ、それ」
「だから、まずは膝の上からでいい。誰かの手に戻る前に、自分の体温を思い出してください」
(まず、“今の自分”を許すことから。そうしないと、未来はずっと凍ったままだ)
ミメの尾が、ふわりと揺れた。
先ほどまでの張りつめた緊張が、少しだけほどけている。
しばらく、無言のまま時が流れた。
ふと、ミメがくすりと笑った。
「……ねえ、高道さん。人間って、たまに“猫語”で話しかけてくるでしょ?」
「“にゃーん、今日もかわいいでちゅね〜”とかですか」
「そうそう、それ」
ミメがいたずらっぽく笑う。
「……あれ、実は意味、ちゃんと分かってるからね」
「えっ」
「翻訳すると、“お前のすべてを無条件に愛してる”って意味。ちょっと魔法の言葉なんだよ。……バカっぽいけど」
その瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、昔付き合ってた友達が猫に向かって「おひげピンピンでちゅね〜」と話しかけてた光景。
(……あれ、魔法だったのか……)
「ちなみに“おひげピンピン”は、“全体的に状態良好”って意味ね」
「勉強になります……」
(やっぱり猫語、深いな)
「……ねえ、高道さん」
「はい」
「わたし、もう一回だけ、人間に甘えてみようかな。“かわいい”って言われなくても、そばにいられる人を、探してみたい」
「それは、きっと良い旅になりますよ」
(誰かに拾われることだけがゴールじゃない。“帰りたい場所”を、自分で選ぶ旅もある)
ミメは、ぴょんと膝から降り、くるりと一度まわって、しっぽを二度振った。
その足取りは、来た時よりもほんの少し軽やかだった。
外に出ると、雨はすっかり上がっていた。
ことのは堂の前を、ほのかな月明かりが照らしている。
“可愛がられるためだけじゃなく、生きてもいい”
その言葉は、誰に届くでもなく、けれど、確かにミメの背中を押していた。
僕は火鉢に新しい炭をくべながら、ひとりごちた。
「さあ、次に膝を借りに来るのは、誰だろうな」
……それが、また猫だったとしても、まあ悪くない。
――いや、むしろちょっと嬉しいかもしれない。