第48話『磯辺巻きより危険な、海坊主のクレーム対応』前編〜あの黒いの、煮ても焼いても怒ってます〜
朝のことのは堂。
潮の香を含んだ風とともに、怒声が飛び込んできた。
「たかみちしゃああぁん!! 出やがったんだよ、黒いのがァ!!」
「……おはようございます。茶でもいかがです?」
縁側で湯呑を傾けていた高道のもとへ、血相を変えた漁師が駆け込んできた。
羽織の裾は濡れ、海苔の切れ端が肩にくっついているのが、なんとも間の抜けた絵面である。
「昨夜な、あの“海守り札”を懐に入れて漁に出た連中が……次々に“何か黒いモノ”に、ずぶずぶ海ん中へ引きずり込まれたんだッ……!」
「海守り札?……黒いモノ?」
「そう! 墨みてぇな肌で、腕っぷしが柱みたいな化けモンだ!」
そのとき、襖がずるりと開き、例によってぬるっと現れたのは、マキビ。
札売りの陰陽師にして、軽薄と愛嬌でできたような男である。
「もしかして〜、あの“大漁万歳”札のこと? 昨日、漁師衆にお裾分けしたんだけど、うっかりちょっと……強めに効果ついちゃったかも〜?」
「かも〜?で一般人に札をばら撒かないでください。」
「うーん、これは呪術界の盲点ですねぇ〜」
茶の香ばしい香りをゆっくりと喉に流し込み、湯呑をそっと置くと、高道はぽつりと呟いた。
「……これは、ちと厄介な因果を結んだようですね」
その声は、湯の残り香のように穏やかだった。
しかし、直後。
ドゴォォォンッ!!!
重たい戸が爆風でも受けたかのように吹き飛び、ことのは堂に突風が巻き起こる。
空気が一変する。
土埃が舞い上がり、棚の紙札がばさばさと宙を舞った。香炉がかすかに傾き、線香の火が一瞬揺れる。
土間に――影が落ちた。
「このやろおおおおッ!!」
怒声とともに踏み込んできたのは、一目で只者ではないとわかる巨躯の男。
その身の丈、七尺(およそ二メートル)。天井近くまであるその姿は、堂内の空間を圧迫するほどだ。
肌は墨のように黒く、煤けたような艶を帯びて光を反射していた。まるで海底の岩に長年晒された鉄のよう。
肩まで流れる髪は濡れたように艶やかで、わずかに海藻の香りが混じっていた。湿気を含んだ潮風が、彼とともに吹き込んでくる。
胸元を大きくはだけた着流し。その奥からのぞくのは、丸太のように隆起した大胸筋と、板のように割れた腹。まさに“怒りの筋肉”。
海の怒りをそのまま擬人化したような威容だった。
マキビがごくりと唾を飲んだ。
「お、お前は……まさか……」
その問いに答えるように、巨人が咆哮した。
「海の底より、文句を言いに来た!! 名乗るは海坊主――武舟!!」
襖がびりびりと震える。
「海を汚せば報いを受けると……てめぇらに教えてやるッ!!」
黒い腕をぐいと突き出すと、拳の先には、びしょ濡れの竹筒。
どこか哀愁が漂う構えである。
マキビがそっと呟いた。
「“海より来たる怒りの筋肉”って感じ……」
何故かうっとりメモを取っている。
「お主らがばらまいたその“札”だ、潮が逆巻き、我の寝床が海溝ごと崩れたんじゃァ!! どう責任とるつもりかァ!!」
「そこまでの被害とは……」
「寝てたら貝が全部顔に張りついたわァ!! ワシゃ呪われた磯辺巻きかァ!!」
怒声が堂を震わせ、天井の梁がミシリと音を立てた。
「つまり……」
高道が、穏やかに口を開いた。
「マキビさんの札の影響で、潮流が乱れ、妖怪的生態系に甚大な被害が出た。加害者は札を持っていた者……と」
「そうッ!! 賠償と謝罪を求めるッ!!」
「ごもっともでございます」
そこで高道は、すっくと立ち上がった。
「では、こちらを」
「ん?」
彼が差し出したのは――
湯気をたてる笹の葉に包まれた、ほかほかの磯辺巻き。
「磯辺巻き……?」
「江戸における“誠意”の象徴です。腹を割って話すには、まず腹を満たさねば」
「なにその説得力……」
マキビがぽつりと呟いた。
海坊主は、じっと磯辺巻きを見つめた。湯気の向こうにただよう、醤油の香ばしさ。もち米のほかほか、磯の香り。
「……ふむ」
「……ふむ?」
「まあ……うまそうだな」
次の瞬間、がぶりとひと口。
咀嚼しながら、海坊主は涙ぐんだ。
「……やさしい味じゃ……ワシゃ、こういうもんに……弱いんじゃァ……」
高道は、にこりと笑った。
「やはり、“怒り”も“誠意”も、どちらも“包む”ことで和らぐのですね」
「おお……なんか名言っぽいぞ……」
こうして、磯辺巻きによる和解が成立した。
が――
堂の奥。小さな棚の上に置かれた紙袋が、不気味に**ぷすっ……**と蒸気を上げていた。
《試作・海守札・更に強化版(封印中)》
「……あれ? これ、まだあったのか」
マキビがにやりと笑った。




