第43話「認識は伝染するものと知れ」〜酒の香りは突然に〜
朝のことのは堂。
戸口には、またもや仁王立ちする茨木童子。だがその顔は、前回より明らかにゆるんでいた。
「なあ高道! 昨日の張り紙、効果あったぞ!」
「それはよかったですね。かわいい評判って、案外人を幸せにしますから」
「子どもがオレに駄菓子くれた!」
「偉そうに言わなくていいです」
「猫が逃げなかった!」
「もともと好きだったんじゃ……」
そこへ、すっと顔を出したマキビが言う。
「じゃあ今日は“茨木様、実は寝起きに弱い説”を広めてみようか〜?」
「おいマキビ、どこまで知ってんだ!?」
「さあて、それは秘密。でも効果は出てますよ、“お茶目な鬼”って印象」
高道が湯呑を置いて言った。
「評判は“伝染”しますからね。誰か一人が言い出すと、周囲もだんだん信じ始める。そしてそれは、見方だけじゃなくて、現実の関係性すら変えていくんです」
「つまり、認識の連鎖か……」
「その通りです、茨木さん」
高道の声がほんのり嬉しそうだったそのとき。
――ギィ、と戸がゆっくり開いた。
その瞬間、ことのは堂の空気が一変した。
――どこか、濃い。空気が、ねっとりと重たくなる。
鼻の奥をつんと刺すような、強い酒の香りが漂い始めた。まるで地の底から這い上がるような気配が、ぴしり、と堂内の張りつめた静寂に切れ目を入れる。
戸が、音もなく、しかし確かな存在感をもって開いた。
夕陽が差し込むその隙間に、逆光の中から現れた男は――影のように美しかった。
紅蓮のような赤髪は、肩にかかるほどの長さで無造作に乱れている。それなのに、その乱れすら計算されたかのように艶やかで、光の加減で朱にも炎にも見える。
すらりと伸びた手足、まとうのは深紫の袴。その裾を引きずるように歩く姿は、無造作でいて重みがあり、見る者の足をすくむような威圧感を放っていた。
長身の身体をしならせながら、ゆっくりと歩くその様は、獲物を見定める猛獣のようで、そして――どこまでも、絵になる。
鋭く細められた眼差しの奥には、笑っているのか睨んでいるのか判別のつかぬ光が潜む。
笑った口元からのぞくのは、妖しく光る鬼の牙。人を魅了し、同時に凍えさせる笑みだ。
「……ほう。楽しそうだな」
その一言だけで、空気が震えた。
堂にいた誰もが、無意識に息をのむ。
「……し、酒呑童子……!」
不意に背筋を伸ばしたのは、茨木童子だった。
普段は傲岸不遜なこの男が、まるで軍門に降るように身を強ばらせる。
そして酒呑童子は、堂の中央に足を止めると、いたずらっぽく、けれど容赦のない目で茨木を見下ろした。
その場にいる全員が、口をきくのも忘れるほどの存在感。
――鬼の王。その名に恥じぬ風格が、そこにはあった。
「おまえ、最近“かわいい”言われてるそうじゃねえか?」
「ま、まさか聞いて……」
「駄菓子もらったんだって?」
「そ、それはちょっとした町の善意で……!」
「猫にもなつかれてるらしいなァ?」
「いやそれはもう、前からというか!」
にじにじと距離を詰めてくる酒呑童子。茨木は露骨に後ずさった。
「オレはよ……てっきり“最強の副将”として、おまえを育ててきたつもりだったんだが」
「ち、ちがっ……!」
「じゃあ証明してみろ。お茶目で、なおかつ鬼らしく強いと」
「え、何を!?ってちょっと待っ……」
酒呑童子はおもむろに腰を下ろすと、ぽん、と茶菓子の皿を指さした。
「この大福。食って、ひとことかわいいことを言え」
「なんでだよ!?」
「それができりゃ、“お茶目な副将”って評判もアリにしてやる」
「試練が地味すぎる!!」
マキビがにやにやと口を挟む。
「でも、これは世間的にはだいぶ高度なやつですよ。力で押すより、言葉で魅せるって……新時代の鬼?」
「やらねば、お前のかわいさは一過性のまま終わるだろうなァ」
酒呑童子が不敵に笑った。
茨木は唇を噛んで、ゆっくりと大福を手に取る。そして――
「……だ、大福くん……ふわもちで、きみのこと……つぶしてごめんね」
沈黙。
堂内の全員が、言葉を失った。
マキビが、震える指で顔をおさえる。
「なにそれ……かわいいとかじゃなくて、ただ気まずい……!」
酒呑童子は、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあまあだな。世間が許すかは知らねえが、俺はそれで満足だ」
「えっ、まじで!?」
「評判ってのはな、誰が見るかで意味が変わるもんだ。どんな伝染でも、オレが最初の感染者になってやるよ」
それは、酒呑童子なりの激励だったのだろう。
茨木は、すこし呆けた顔のまま、大福を食べた。
「……やべえ、普通にうまい」
「だから人気なんだろ」
高道は、そっと湯呑を差し出す。
「――“最初の一人”が変われば、認識は一気に塗り替わるんですよ」
その日の午後。
城下では、またも妙な噂が広がった。
「聞いた? あの酒呑童子様が“大福ごめんね”って言ってたらしいよ」
「しかも“ふわもち”って言ってた!」
……そう、今度は“鬼の王・酒呑童子、実は甘党説”が伝染しはじめたのだった。
――認識は、伝染する。
たった一つの視線で、世界ががらりと変わることもあるのだから。




