第41話「焼けぬ心に、火をともす」〜まだ燃えない心の奥で〜
男の名は、茂八といった。
かつては奉公人だった。よく働き、口は悪くとも面倒見はよく、町の子どもに飴を配るような男だった。
だが、ある日。
小さな不注意が、大きな火種になった。
雇い主の店で、帳簿のつけ忘れが見つかったのだ。たった一度の誤記。けれど、それが店の主にとっては致命傷だった。仕入れが狂い、損が出た。
しかも茂八は、黙っていた。ミスを認めれば、店を追い出される。それが怖かった。
「俺のせいじゃねえ。帳簿の字なんて、誰でも間違える……」
何度も、そう自分に言い聞かせた。
だが噂は広がった。
「茂八が帳簿をごまかしたらしい」
「主に責任をなすりつけて逃げたってよ」
真偽は曖昧なまま、信頼は崩れた。茂八は奉公先を追われ、職を転々とし、やがて町の誰とも口を利かなくなった。
「どうせ、俺がやったって誰も信じねぇんだよ」
何かに挑もうとすると、あの目が浮かぶ。
「なにか間違えたら、また……全部終わる」
そう思うと、もう真面目にやるのがバカバカしくなった。
気づけば誰彼構わず手が出るようになった。
謝るより、殴るほうが早い。説明するより、黙ってる方が楽だ。
「俺はもともとこういう奴だ」
そう言い聞かせるたび、心の奥で何かがくすぶった。
ある日、路地裏でつぶやいた。
「俺はもう……変われねぇんだよ」
でも本当は、変わりたかった。
ただ、また失うのが怖かった。
また「お前のせいだ」と言われるのが、何より怖かった。
その夜、茂八は浅い眠りに沈んだ。
夢の中――
闇の中に、ぽつんと火が灯っていた。最初は小さな火種だった。だが見る間に、それは音もなく広がっていく。赤く、じわじわと、まるで何かを喰うように燃えていた。
炎の向こうに、何かがいた。
輪郭はぼやけていて、まるで溶けかけた人の形。腕かと思えば羽のように広がり、顔かと思えば、くちばしのようなものが突き出している。
その存在が、炎の中から一歩、こちらに踏み出した。
――じっ、と見つめられた。
光のない瞳だった。だが、真っ直ぐだった。どこにも逃げ道がない。身体の芯を見透かすような、冷たい目。
名を呼ばれたわけでもないのに、茂八の胸がどくりと跳ねた。
「見てる、見られてる……俺の、なかを……」
足がすくみ、声が出ない。焼ける匂いがした。けれど、焦げているのは夢の中の景色ではなく、自分自身だと直感した。
逃げたくても逃げられない。
その瞳から、視線が離せない。
炎が、ふっと揺れた。
そして、何かが啄むように――彼の心の奥をつついた。
翌朝、茂八は無意識に拳を握っていた。
そのまま町へ出て、また誰かにぶつかっていった。
「どうせ、俺は……」
そのつぶやきに、火はまだ、ついていなかった。
夕暮れの市中。
茂八は、また人を殴っていた。酒に酔ったわけでもなく、金を奪うでもない。ただ、己の苛立ちを、通りすがりの誰かにぶつけるように。
「――このっ、なに見てやがる!」
地面に倒れた若者が呻く。その前に立ちはだかったのは、紺の羽織を着た細身の男。高道だった。
「……やめておきましょう。これ以上は、あなたの中の“後戻りできなくなる気持ち”が、あなたを壊しますよ」
茂八は鼻で笑う。
「説教か? 今さら誰に責められようが、俺はもう……」
そこに、炎のような羽音が舞い降りた。朱に染まる大きな鳥。
そのくちばしの奥で、赤い火が静かに灯る。
「波山……」
高道が呟くと、男の視線がそちらに向いた。波山は、人の“穢れ”に反応する、異界の鳥。くちばしから吐き出す炎で、人の醜さを焼き、善性だけを残す――噂の存在だ。
「ひ……っ!」
茂八は、波山の瞳と目が合った瞬間、地に伏した。まるで、自分の中の“何か”を見透かされたかのように。
波山は火を吹かなかった。
男は震えながら呻いた。
「……なんで……俺を焼かねぇんだよ。俺なんて、腐ってんのに……」
その言葉に、高道がそっと膝を折り、男の肩に手を置いた。
「それが“挑戦拒否シンドローム”というものです」
「……は?」
「変わることを、怖がる気持ちです。悪い自分のままでいる方が、楽だから。挑戦して、失敗して、“また責められる”くらいなら、最初から善人なんて目指さない方がマシ……そう考えるのは自然なことなんです」
男は、肩を震わせていた。
「でもな……俺は、やっちまったんだよ。誰かを殴って、逃げて、どんどんクズになって……。今さら、許されるわけがねぇだろ……」
高道は、わずかに首を横に振った。
「“自分は悪くない”って理由を、誰かのせいにしてきたでしょう? それも、人が自分を守ろうとするための“罪悪感軽減バイアス”です」
「……?」
「たとえば、“自分はこう育てられたから仕方ない”とか、“みんなだってやってる”とか。罪の重さを、自分の外に預けていくと、人は楽になれる。でも――それは、本当の意味で、自分と向き合ってるとは言えません」
波山が、一歩、茂八に近づいた。だがその炎は、なお静かだった。
高道は言う。
「波山の火は、焼くことが目的じゃないんです。心の奥に、“変わりたい”という種があれば、それを包んで温めてくれるんですよ」
その瞬間、波山のくちばしの奥で、小さく火が灯った。ぬくもりのある、春先の火のような。
罪人の男は、目を見開き――そのまま、ぼろぼろと泣き出した。
その夜、ことのは堂の縁側で、高道は一人、茶をすする。
「……あの人、少しでも明日が変わるといいな」
隣には、いつの間にか波山が止まっていた。
「焼かなかったんですね」と高道が言うと、波山は小さく目を細めるように、くちばしの先で火をゆらした。
「うん。あの人の中には、もう火種があったみたいです。だったら、僕は少し手を添えるだけでいいんです」
一方その頃、街の片隅で。
かつて暴力を振るったあの男が、崩れた橋の下で、一人の子どもの手を引き上げていた。
「ほら……もう大丈夫だ。大声、出せよ」
その手は震えていたが、目はどこか、前より穏やかだったという。
――波山の火は、今日も誰かの心の奥に、そっと灯り続けている。




