第35話「雪の祠に、言葉は灯る」〜回想〜
一件落着のあとの“ことのは堂”には、しんとした安らぎが流れていた。
囲炉裏の上で湯が静かに湧き、湯気が棚板に沿って昇っていく。炙った豆餅の香ばしさが鼻をかすめ、外では虫の声がさざ波のように鳴いていた。戸を少しだけ開け放った縁側からは、夜風がさらりと吹き込み、掛け紙の隙間を揺らしている。
朧丸は、湯呑みの縁を5本の指で掴みながら時折口に運び、縁側で無言のまま夜空を見上げていた。その背には気負いもなく、ただ火と風に溶け込むように静かだった。
マキビは座敷の一角、座布団にあぐらをかいて、抱えた茶碗を片手に、すっかり寛いだ表情で茶をすする。いつもの茶目っ気は控えめで、その視線はときどき、ひとりの少女に向けられていた。
ヨモツダレ。
白衣の少女は、囲炉裏端に膝をそろえて座っていた。着物の袖をきちんとたたみ、指先を重ねる姿はどこか祈る者のようで、けれどその表情には、深く澄んだものが浮かんでいた。
高道は茶を注ぎ足しながら、彼女の沈黙にふと声をかけた。
「……落ち着きましたか?」
静かな問いかけに、ヨモツダレはわずかにうなずいた。
「はい。……ご迷惑をおかけしました」
その声は小さいが、芯に凛としたものがあった。
囲炉裏の火がぱちりと弾け、影がふう、と壁を滑った。
マキビが穏やかな声で言う。
「少し、話してみませんか?」
ヨモツダレは火を見つめたまま、しばらく口を閉ざしていた。けれどやがて、静かに言葉がこぼれ落ちる。
「……あの方に出会ったのは、雪の季節でした」
その一言に、場の空気がすっと変わった。
誰も言葉を挟まず、ただ耳を傾けた。
ーーーーー
その日、雪は降っていた。
それは静かで、深く、世界を包むような白だった。
山の奥、道なき道を越えた先に、祠はあった。苔の生えた石段を数段上がると、軒の低い小屋のような建物がひっそりと姿を見せる。瓦の端は欠け、木の戸には風の跡がすき間を残していた。
中には灯明がひとつ。かすかな焚き火の名残と、枯れた薬草の匂いが混ざる空気。
そこへ、ひとりの僧がたどり着いた。
まだ若い男だった。僧衣は濡れて重く、袖に土がついている。片腕を押さえ、肩で荒く息をしながら、ようやく祠の戸を押し開けた。
そのまま、うつ伏せに倒れ込むように中へ入ってきた。
ヨモツダレは、祠の梁の影に潜み、その姿をじっと見ていた。
声はかけなかった。ただ、じっとその存在を見守っていた。
男は、祠の敷板に横たわり、意識を失いかけていた。だがその顔には、苦悶ではなく、どこか安堵のような表情が浮かんでいた。
祠に、誰かがいることを、気づいていたのかもしれない。
その夜は、吹雪だった。
ヨモツダレは言葉をかけるかわりに、火を起こし、炙った干し芋を薄布に包んでそっと彼のそばに置いた。姿は見せぬまま、足音すら残さず。
雪の祠の中、二人は言葉を交わさぬまま、同じ灯のもとにいた。
二日目の朝。
男は目を覚ました。
目を細めながら、火の名残と干し芋に気づき、それを一口、そっと噛んだ。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かはわからない。けれど、祠の奥に身を隠していたヨモツダレは、その声音が嘘ではないことを知っていた。
その日、男は火のそばに座り、祈りの言葉を唱えていた。
ただ祈り、ただ静かに時間を過ごす。その背に、邪気はなかった。
三日目。
男はふたたび、火を熾し、整った所作で香を焚いた。
薄く漂う香煙の中で、ぽつりとつぶやいた。
「兄弟子が言っていました。……世には目には見えなくとも迷える魂を見守っている何かがいるのだと」
ヨモツダレは、祠の柱の影に指先を添えた。
「——もしも、あなたが、そのひとりなら」
男は火の中を見つめたまま、静かに笑った。
「命を取るというなら、それも構わない。でも……もし、ただ、見守ってくださるものなら。私は、あなたに名乗ることを恐れません」
そう言って、彼は自らの名を口にした。
その声は、迷いのないものだった。
そして、翌朝。
雪がやみ、陽が差した。
男は祠の戸口に立ち、ふり返った。
「——また、どこかでお会いできたら。……そのときは、あなたを“友”と呼ばせてください」
その背中が、雪に沈んでゆく。
ヨモツダレは、ただその姿を、最後まで見送った。
祠の中に、ことり、と灯るものが残った。
それが“想い”という名のものだと、彼女が知るのは、もっと後のことだった。
ーーーーー
ことのは堂の囲炉裏に戻ると、しばらくの沈黙が訪れた。
ヨモツダレの目に、涙はなかった。ただ、そっと目を閉じ、手のひらを胸元に置いた。
高道は、静かに茶を差し出す。
「……伝えられなかった言葉も、形を変えれば、届くことがあるのかもしれません」
朧丸が火を見ながらぽつりと言う。
「……誰かに“友”と呼ばれるだけで、救われる魂もあるのかもな」
マキビは笑わずに、静かにうなずいていた。
その姿は、旅人ではなく、まるで古い縁をつなぐ使いのようだった。
夜風が、すこしだけ甘い香りを運んできた。
囲炉裏の火がぱちりと弾ける音が、言葉の代わりになって、部屋の中に満ちていた。




