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第34話「盗まれた護符、願いは誰のもの」〜願いが叶えば、幸せになるとは限らない〜

本日の“ことのは堂”は、朝からにぎやかだった。

軒先には涼やかな風が吹き、木戸に吊るした風鈴がちりん、と鳴る。釜からは茶の香りがふわりと立ちのぼり、夏の名残と秋の気配がないまぜになるような、柔らかな朝。

そこへ——。

「高道くーん、ことのは護符の補充に来たよー!」

元気な声とともに、木戸がばたんと開いた。立っていたのは、旅の護符売り・マキビ。薄茶の羽織が風に揺れ、長めの前髪の奥で、猫のような笑みが浮かんでいる。両の腕には札束がぎゅうぎゅうに抱えられ、香袋からは干し柚子のような清香がほのかに漂っていた。

高道は帳簿を見上げ、眉をひそめる。

「……ちょっと多くありませんか、今月」

「愛だよ!」と即答するマキビの左の八重歯が、朝の光をきらりと反射した。

縁側では、朧丸が湯飲みを手に、静かに茶を啜っている。銀髪が、朝の風にさらさらと揺れた。

「愛の押し売りは迷惑だぞ」

「ひどいなあ〜。でもね、この札たちは、ぜんぶ“願い”が籠もった子たちなんだよ」

「……その言い方、どこかで爆発しそうで怖いんですが」

高道が本音をこぼすと、マキビの顔から笑みがすっと消えた。その目の奥に、かすかな翳りが走る。

「……それがね。最近、ほんとに“変なこと”があってさ」


盗まれたのは、一枚の札だった。

縁願えんがんの護符」と呼ばれるそれは、強い想いで“誰かとの再会”を引き寄せる力をもつ、きわめて繊細な護符。

「でも、あれは本来、使うべきじゃない場面がほとんどなんだ」

縁側に座り込んだマキビは、手元の護符の束を整えながらぽつりとつぶやく。秋の光が彼の肩に落ち、影が斜めに伸びていた。

「どうして?」

問いかける高道の手は、いつのまにか静かに札を撫でていた。和紙の感触に、こもった想いの熱がかすかに残っている。

「願う側の想いと、相手側の気持ちがズレてたら、どっちも傷つくから」

マキビの声には、どこか自戒めいたものが滲んでいた。

「で、盗んだのは?」

「“ヨモツダレ”って妖怪。冥土のとばりを預かる子でね、未練を抱いた魂を見守る役目を負ってる」

「……まだこの世にいる誰かに、会いたいと?」

マキビは、静かに頷いた。

「らしい。で、その札で、願いを叶えようとしてるみたいなんだ」


夕暮れ。茜色の空が、町並みの瓦屋根を照らす。旧市街の外れにある神社跡は、いまや朽ちた鳥居と、風に揺れる鈴の音だけが残る、ひっそりとした場所だった。

境内の奥、石灯籠の陰に、ひとりの少女が立っていた。

白い衣をまとい、背を向けている。長い黒髪が風にたなびき、木立の葉が、静かにざわりと揺れた。

「……来たんですね」

ふり返った少女——ヨモツダレの瞳は、どこか透き通るような色をしていた。決意を帯びた静けさが、その声に滲んでいる。

「その護符、返してもらえますか」

高道がそっと問いかけると、ヨモツダレはかすかに微笑んだ。

「返せません。……この札で、どうしても会いたい人がいるんです」

「……亡くなった人ですか?」

「いいえ。まだ生きている人。でも、時間が……もうないんです」

話によれば、彼女が会いたいのは、ある年老いた僧だったという。

かつて迷い込んだ冥土の帳で、ほんの数日を共に過ごしただけ。それでもその人は、彼女を「友だち」と呼んでくれた。

「……あの人、もう目も見えず、声も出せない。それでも私は……もう一度、“ありがとう”を伝えたいんです」

ヨモツダレの手の中で、護符がじわりと光った。金の糸がにじむように、札面からこぼれ出す。

朧丸が、ふっと息を吸った。

「その護符……発動寸前だ。……力が強い」

「このまま使えば、あの人の魂まで引き寄せてしまうかもしれない」

高道の声が、わずかに張り詰めた。

少女の手が、かすかに震えた。けれど、彼女は首を振る。

「それでもいいんです。もし私が壊れても、再会が叶うなら」

その言葉に、マキビが一歩、踏み出した。

「違う!」

その声は、いつもの軽やかさとは打って変わって、どこか切実だった。

「俺は、そうやって願って、あとで泣く人を……たくさん見てきた」

一瞬、風が止んだ。木立の音も、虫の声も、すっと静まる。

護符の光が強まり、空間がわずかに歪んだ。境内の空気が重く、湿り気を帯びてくる。

「もう時間が……!」

ヨモツダレが護符に手を伸ばす、その直前——。

マキビが懐から、もう一枚の札を抜き出し、護符の上に重ねた。

――ばっ、と閃光が走る。

二枚の札が、空中で反応し、火花のような光を放って相殺された。

ヨモツダレが手を開くと、護符は跡形もなく燃え尽きていた。

「いまのは、“相殺札”。護符同士の力を封じる札だよ」

驚いたように高道が見つめる。

「つまり……」

「うん。実は俺、陰陽師だったりします。護符、作ってるんですよ」

マキビは胸を張って、八重歯を見せた。

「……僕、札拾ってくるだけの変なお兄さんだと思ってました」

「ひどっ! 札、全部手描きなんだよ!? 和紙も手漉き!」

そのやりとりを聞きながら、ヨモツダレは力なく座り込んでいた。

「……これで、会えないんですね。永遠に」

その声は、どこまでも小さくて、ひどく悲しかった。

マキビが、そっと腰をかがめ、小さな札を懐から差し出す。

「これは“音無ねなしの護符”。声にできない想いを、夢に乗せて届ける札」

「え……?」

「一度だけしか使えない。でも、もしよければ——あなたの“ありがとう”を、この札に込めてみて」

ヨモツダレの瞳が、揺れた。驚きと、感謝と、もう少しだけの希望。

「……いいんですか」

「うん。“誰かの幸せ”を願う想いなら、護符も、喜ぶから」


ことのは堂。夜。

湯呑に茶が注がれる音だけが、静かに響く。

朧丸が、ふとつぶやいた。

「願いって、不安定だな」

「うん。叶えることが、必ずしも幸せとは限らない」

マキビは、囲炉裏の火をじっと見ながら言った。炎のゆらぎが、その頬をあたたかく照らしている。

「だからこそ、“ことのは”が必要なんだよ」

「願いを……言葉にすることが?」

「そう。言葉にすることで、自分の本当の気持ちに気づける。伝えることで、想いが形になる」

高道は、そっと湯呑を置いた。

「……僕にできるのは、その言葉を、静かに受け取ることだけです」

マキビがにこっと笑った。猫のような顔に、八重歯がちらり。

「だから君に、護符を下ろしてるんだよ」

その声は、いつもの軽さに混じって、どこか確かな響きを持っていた。

(……やっぱり、ただの護符売りじゃないな)

高道は湯呑を手に取り、ふと夜空を見上げた。

雲の切れ間からひとつ、燃え残りの護符のような金色の星が、ぴたりと瞬いていた。

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