第33話「護符に宿るは、別れの言葉」〜再会は果たせぬまでも、言の葉は届く〜
それは、小雨の降る晩だった。
ことのは堂の軒先には、雨粒が落ちるたびに、控えめな水音がぽつ、ぽつ、と響いていた。灯明の炎がゆらぎ、囲炉裏の火が時折ぱちりと弾ける。
そんな夜の静けさを、破るような声が門の向こうから飛んできた。
「高道どの〜〜〜!!」
がらん、と戸が乱暴に開く。
草履の音、濡れた羽織の音、軽い足取り。現れたのは、やはりあの男だった。濃い茶色の羽織の袖口から護符がはみ出し、腰の香袋は少し濡れて黒みが増している。けれど彼の笑顔は変わらない。猫のように人懐こく、八重歯がちらりとのぞいていた。
「マキビさん……また突然……」
「いや〜、ちょっとお力を借りたくて!」
ことのは堂の土間に立ち尽くすと、マキビは懐を探り、和紙の一枚をそっと取り出した。
それは、紙というより、湿った記憶のかけらのようだった。墨はかすれ、わずかににじんでいる。手に持つだけで、どこか胸の奥がぎゅっと締めつけられるような重みがあった。
「これ……変なんですよ。気配が、沈んでて、でも、強い」
紙片を持つマキビの声には、珍しく躊躇があった。
護符には、こう書かれていた。
『ユウ。すまなかった。おまえの名を呼べるなら、それだけで……』
高道は言葉を失った。墨の行に滲む悔いの熱、呼びかけの切実さが、胸に突き刺さる。
「……これ、“未練”ですね」
そのとき、背後の障子が、音もなくすうっと開いた。
立っていたのは朧丸だった。静かな足音、濡れた肩。灯りの陰影がその顔を静かに照らしている。
「“死に際に紡げなかった言葉”が、護符に籠もることがある」
朧丸は一歩進み、マキビの手から護符を受け取る。指先が紙に触れた瞬間、微かに空気が揺れた。
「マキビ、これはどこで拾った」
「昨日、とある山里の祠で。封を解いたら、ふわっと飛び出してきて……書いた本人は、もう」
言葉を濁すマキビの目元に、わずかに陰りが浮かぶ。
書いた者は、もういない。けれど、言えなかった言葉だけが、今もこの世に残っている。
ことのは堂の囲炉裏端。護符を囲んで、火を見つめる三人。
赤い炭火のなかで、誰もがしばし言葉を持たなかった。
「“ユウ”ってのは、名前でしょうか?」
ようやく口を開いた高道に、朧丸がそっと頷く。
「間違いないな。文の気配からして、父親から娘に向けたものだろう」
護符をそっと指でつまむ。その動きが、どこか慈しむようだった。
「この妖気……書き手は“狐”だ。霊力は高くないが、言葉に宿る情が深い」
火のなかで木炭がくすぶり、ぱちりと小さく音を立てる。火の揺れとともに、護符の墨もまた、語りかけているように見えた。
「……じゃあ、探しましょう。娘さんを」
高道のその言葉に、マキビがにやりと笑みを浮かべる。
「おお、出ましたね、ことのは堂名物“相談解決モード”!」
「ちょっと静かにしてください」
細道を越え、小さな村を抜けると、雨に濡れた山裾の木々がしんと立ち並ぶ。
やがて辿り着いたのは、茅葺きの屋根と薬草棚が並ぶ、ひっそりとした薬屋だった。軒下には草を束ねた乾燥棚、棚の上には自家製の香油瓶。人の暮らしが、控えめながら丁寧に息づいている。
店先にいたのは、年若い娘。狐耳を揺らしながら薬包を手にしていた。
名を「ユウ」という。
高道が護符を差し出すと、彼女の手がぴたりと止まった。紙に触れもせず、ただ目だけが大きく開かれる。
「……父のこと、ですか?」
その声には、明らかに震えがあった。
指先をわずかに握りしめ、護符を受け取ると、視線がそこに縫いつけられたようになった。
「最後に会ったとき、言葉を交わせなかったんです」
その呟きは、心の底からこぼれたものだった。
「あの人、ずっと無口で……優しいけど、不器用で……でも、背中で、いつも私を送り出してくれてたんです」
言葉の合間に、鼻をすする音が混じる。
「それでも……山で行方がわからなくなって……それきり……」
震える声の中に、何度も飲み込まれた想いがあった。後悔、怒り、あきらめ。けれど何より——会いたかったという切なる気持ちが。
「そのとき、言えなかったことが、この護符に宿ったんです」
高道は、静かに護符を差し出した。
ユウの両の手が、それを抱くように受け止める。
次の瞬間。
護符が、淡い金色の光を帯びた。ほんの小さな灯火のように脈打ち、ぬくもりを残したまま、ゆっくりと彼女の胸元へと溶けていった。
「……父の字、です。たしかに、これ……」
瞼を閉じたユウの目尻から、ひとしずくの涙が落ちた。
「……ああ、言葉って……届くんですね」
その瞬間、背後の森からやわらかな風が吹いた。山の匂いと雨上がりの空気が、薬草屋の中を通り抜けていく。
朧丸が、そっと目を伏せて呟いた。
「別れのあとに、届く言葉もある。だがそれは、ただの慰めじゃない。……魂を、繋ぎ直す術だ」
帰り道、夜空はすっかり晴れていた。木々の間から月が顔を覗かせている。しっとりと濡れた草葉が、わずかな月明かりを受けてきらめいていた。
マキビが、護符の束を指で軽く弾きながら言う。
「ねぇ、高道どの。やっぱ、ことのは堂って……すごいっすね」
「いや、僕らはほんの……」
「いやいやいや、謙遜しちゃいけませんよぉ!」
八重歯をちらりと見せて笑うが、その声には、どこか温かい余韻があった。
「実は……こういう“訳あり”の護符、ほかにもあるんです。気まぐれに集めてたら、だいぶ増えちゃって」
護符の束を見つめるマキビの目が、少しだけ遠くを見ていた。
「それ……預けてくれませんか?」
高道の問いに、マキビはにやりと笑い、護符を一束抜いて差し出した。
「そう言うと思った!」
「じゃ、これからは“月一護符納品”ということで!」
「そんな名前の業務、ことのは堂にはないです」
「作ればよいのでは?」
「勝手にルール作らないでください!」
いつもの調子のやりとりのなかに、小さな使命感のようなものが芽生えていた。
こうして、“ことのは堂”は新たな役割をひとつ得た。
——護符の言葉を、届ける場所。
未練も、願いも、すれ違ったままの想いも。
それが紙に宿る限り、言葉にすれば——きっと、いつか届く。




