第23話「八咫烏、飛べぬ空の下で」〜無名と注視のあいだにある、三本足の飛べぬ声〜
縁側に腰を下ろすと、夏の名残を引きずる夕風がふわりと吹いた。
僕は急須を傾けながら、隣の朧丸にひとつ訊ねる。
「なあ、朧丸。今朝、茶葉の缶、勝手に減ってなかったか?」
「勝手にって何だ。俺が飲んだんだよ。三杯くらい」
「……せめて一言くれてもいいのでは?」
「言ったら怒るだろ」
「言わなくても怒るよ?」
「どっちにしろ怒るなら、黙ってた方がマシじゃないか?」
「いや、そこは謝ってほしいな」
「悪かったよ。次は四杯にしておく」
「増えてる……」
湯呑みを置く音が、木の縁をぴんと鳴らした。
猫が軒下で伸びをしながら、こちらをちらりと見て去っていく。
「……なんか、こういう時間って、案外大事かもな」
「お前に言われると妙に説得力あるな。何気ない日常、ってやつか?」
「そうそう。特に事件も起きない、ただの一日」
そのとき、玄関前から聞こえたのは、小さく震える声だった。
「……あの、拙者……八咫烏でして……」
羽根をすぼめ、つぶらな目で僕を見上げてくる。
僕と朧丸は顔を見合わせた。
「はい、何気ない一日終了」
「平和なんて、夢だったな」
「八咫烏……って、空で大名乗りするやつじゃないんですか?」
「いえ、その……それは兄のほうで……拙者は……弟で……」
「弟……なるほど」
(カラスにも兄弟いるのか……しかもキャラかぶりしないのか)
横で湯呑みをすすっている朧丸が、涼しい目でこちらを見ている。
(扱いめんどくさそうなだなって顔してるな)
「道案内ができなくなりました……」
ことのは堂の囲炉裏端で、八咫烏(弟)はおずおずと語った。
緊張で羽根をわたわたさせる姿は、もはや小動物に近い。
「昔は、自分を見てくれる人がいたんです。“八咫さま、ありがとうございます”って、笑ってくれて……」
「今は?」
「……誰も見ないんです。空を、拙者を、目の前の案内すら。だから、どっちが北かも言えなくなって……」
「つまり、“見られないと力が出ない”んですね」
僕が頷いたあと、朧丸が茶をすする音だけが部屋に響いた。
「……オーディエンス依存症ですね。」
(しかも拗らせてる)
「だったら、見てくれる人がいれば、案内できるんですね?」
「は、はい……」
「よし。じゃあ、朧丸、記録係してくれ」
「なぜ俺が」
「お前、見たもの聞いたものを記録できるんだろ。今の八咫烏の台詞、書いて残してくれ」
「……俺は製版印刷機じゃねえ」
「でも記憶は残せるでしょ。便利じゃん、妖怪製版印刷機」
「誰が妖怪製版印刷機だ」
「八咫烏さーん、こっち、導いてます感もっと強めでお願いしますー!」
撮られ慣れてきた――いや、記録され慣れてきたのか、
八咫烏の動きは明らかにスムーズになってきた。
足取りに迷いがなくなり、声も少しずつ張りが出ている。
「……こっちの道を行くと、朝露の残る石畳に出ます。滑るので、足元注意です」
「声に自信が出てきたな」
僕が感心して言うと、八咫烏は小さく頷いた。
「見られてると、やっぱり背筋が伸びるというか……」
「でも、他人に見てもらえない日だってあるだろ?」
朧丸がそっと巻物を畳みながら言った。
「“誰かの目”だけに頼ってると、自分を見失うぞ。見守られてても、道を指すのは自分だろ」
八咫烏は黙って、少しだけ視線を下げた。
「……でもやっぱり、兄のように空から派手に名乗る勇気は、ありません」
しょんぼりうつむいたその瞬間。
「いまの顔、いいな。記憶に焼きつけとく」
朧丸がにやりと笑う。
「“自信が出た直後の自我崩壊顔”って感じ」
「い、いらないです!! 忘れてください!」
「無理。俺、そういうの消せないから」
「機能が高すぎて困る!!」
夕暮れ。
八咫烏が縁側で空を見上げながら、ぽつりと言った。
「でも、今日の拙者は、少し飛べそうな気がします」
「それは、僕たちが見てたから?」
「……うん。たぶん、それだけで十分なんだと思います」
朧丸も静かに頷いた。
風のない空に、微かな羽音がのぼる。
誰も見ていないと思っていたその空に、
一羽の八咫烏が、ふわりと羽ばたいた。
注目なんてなくても、ほんの少し、心が浮くことはある。
そう思えるのなら、それもまた、いい“導き”なんだろう。




