第20話「痛みは流れ、残るは芯」 〜伝えようとすることが、何よりも強いのだと〜
ある日、ことのは堂の前に、一人の娘が立っていた。
白い衣をまとい、透けるような肌をしている。
耳元に隠れるように、小さな角がふたつ。
娘の名は、ユウリ。白沢の娘だった。
けれど父と違って、穏やかで、繊細で、声が小さい。
何より——ほとんど、ことばを発さない。
娘は、店の引き戸の前で長く立ち尽くしていたが、やがて意を決したように、そっと扉を開いた。
「ご相談、ですか?」
高道が声をかけると、ユウリはおずおずと頷いた。
「どうぞ、おかけください」
高道は、静かに湯を沸かしはじめた。
ふつふつと音を立てる鉄瓶。香ばしく炒った茶葉の香り。
ユウリは黙ったまま、出された湯呑みの湯気をじっと見つめている。
言葉のない時間が流れる。
だが、高道は急かさない。
「話してほしい」とも言わない。
——沈黙にも、言葉以上の意味がある。
それが彼の持論であり、“ことのは堂”の空気だった。
やがて、ユウリが小さく口を開いた。
「……ことばが……こわいのです」
「こわい?」
「……使うと、誰かが傷ついてしまいます。だから、わたしは黙るようにしました」
言葉は震えていたが、それでも彼女は少しずつ、自分の過去を語りはじめた。
ユウリにはかつて、“ひとの心を見通す力”があった。
その力で、彼女は善意で言葉をかけた。
励ましのつもりだった。優しさのつもりだった。
けれど——
「見透かされた」と、相手は感じてしまった。
怖がられ、拒まれ、疎まれていった。
「……わたしの言葉は、誰かを泣かせてしまうんです」
高道はすぐには否定しなかった。
ユウリの話に割り込まず、ただそっと、目線を合わせる。
「ユウリさん。“泣かせた”のは、本当にあなたの言葉でしょうか?それとも、“届かなかった想い”のほうですか?」
ユウリは、ぽかんと彼を見つめた。
「言葉は、たしかに強い。でも、同じくらい脆い。伝わらなければ、刃になる。けれど——届けば、芯になります」
「芯……?」
「痛みは流れていきます。時間が経てば、悲しみも怒りも、少しずつ溶けていく。でも、あなたが誰かを思って発した“ことばの芯”は、きっと残ります。誰かの中に、優しく沈んでいくはずです」
ユウリの瞳が揺れる。
その言葉は、初めて聞く響きなのに、なぜか懐かしい——
どこかで、願っていた気がする。そんな“答え”だった。
「……それでも、誰かを傷つけてしまうかもしれません」
「それでも、です」
高道は、ゆっくりと頷いた。
「言葉にしなければ、誰にも届かない。
でも、届いたあとに傷ついたなら、それは“届いた証拠”です。そのとき、相手が“あなたの本当”を探そうとしてくれたのなら——それはもう、失敗じゃありません」
「…“痛みは流れ、残るは芯”…」
ユウリは、唇を少しだけ噛んだ。
それは、自分の中の“否定の芯”と向き合おうとしている証だった。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……“届いたあとに傷つくのは、届いた証拠”……」
その言葉を、小さく、何度も口の中で転がす。
まるで、それが自分の中に入っていくように。
やがて——ユウリの頬を、涙が伝った。
「やっぱり……こわいの……」
かすれた声だった。でも、間違いなく“ことば”だった。
「こわくて、いいと思いますよ」
「……え?」
「言葉は、こわくていい。
こわいままで、少しずつ、こわくない形にしていくのが“生きる”ってことですから」
ユウリは、少しだけ肩の力を抜いた。
そのときの笑顔は、角よりもずっとやわらかくて、美しかった。
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数日後、店の扉を勢いよく開けたのは、父・白沢だった。
「高道殿っ!! うちの娘が……笑ったと聞きました!!」
「はい、笑ってましたよ。お茶を飲みながら、ふっと」
「それはつまり……いやまさか……何か術を!? 言霊!? 愛の力!?」
「落ち着いてください。僕は、ただの相談屋です」
「ぐぬぬぬ……なんてお方だ……!
あの子が他人の前で笑うなんて……なんて……なんて……」
白沢はぐしゃぐしゃに顔をくずし、大泣きして帰っていった。
(……ほんと、泣き上戸の父親って大変だ)
(でも、あの子が“ことばを恐れない”ようになったのなら、それで充分だ)




