第2話「カガミワラシ、映らぬ自分」~あなたが見てくれるなら、わたしも少しは光れるかもしれない~
ことのは堂には、一枚の古びた鏡がある。
朱塗りの木枠に、繊細な花の彫刻があしらわれた手の込んだ造りで、一見すれば美術品のようでもある。だが鏡面は長年の埃とくすみによって、まるで曇天の湖面のように濁っていた。誰の姿も、ほとんど映らない。
「それ、売り物にはならんでしょうな」
と、店の常連である焼き団子屋の親父が、湯呑みを手に言った。香ばしい団子の香りがまだ鼻先に残る。
「うちにあったときは、“見たくないもんばっか映る”って言われましてね。商売に悪い気がして、物置に仕舞い込んでたんですよ」
「なるほど、それで……こちらに回ってきたんですね」
俺は静かに頷きながら、鏡の表面に手を伸ばす。冷たい。まるで誰かの気配が、内側に閉じ込められているかのようだった。
(これは、誰か……住んでるな)
夜更け、店を閉めたあと。
僕は鏡の前に膝を折り、ひとりそっと声をかけた。
「こんばんは。“ことのは堂”の高道です。もし、よければ少しお話ししませんか?」
曇った鏡はしばらく無言を貫いていたが、やがてゆらりと波紋が広がるように、淡く白い顔が浮かび上がった。それは──幼い少女の姿をした妖怪、“カガミワラシ”だった。
「……どうして、あなたには私が見えるの?」
か細い声。まるで地下深くから押し上げられてきた泡のような、ほとんど消え入りそうな声だった。
「“言葉を扱う者”には、曇りや反響の向こうにあるものが、少しだけ見えるようになるんですよ」
僕は言葉を選びながら静かに言った。
「……誰も、私を見てくれないの。みんな、自分の顔しか見ていない。私なんて、いてもいなくても同じ」
その言葉には、怒りよりも深い哀しみが滲んでいた。
苛立ちよりも、置いていかれた寂しさ。そんな音色の声。
「君は、ずっとその鏡に?」
「うん。私は“映す価値のある人”しか映せない。……誰かが『お前は綺麗だ』って言ってくれたら、きっと少しは光れるはずだったのに」
(……これは、思った以上に重症だな)
「じゃあ、試してみましょうか」
「試す?」
「“誰かが期待してくれたら力が引き出される”って現象が、心理学で“ピグマリオン効果”って呼ばれています。君もそれに似た力を持っているんじゃないですか?」
「……そんな、人間の理屈で……」
「でも、人間の“言葉”であなたの中が少しでも晴れるなら、悪くない話じゃないですか?」
少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……いいよ。でも……その代わり、ちゃんと磨いてね。ホコリまみれのままだと、私、クシャミ止まらなくなるから」
「妖怪でもクシャミするんですね」
「妖怪にも鼻はあるの!」
ちょっと怒った顔をしたその瞬間、くしゃみが「へっくちっ」と炸裂した。
鏡面が一瞬ぐにゃりと歪んで、僕の顔がアホ面に変わる。
──鏡にツッコミを入れられたのは、人生初だった。
それから僕は、毎晩少しずつ鏡を磨くようになった。
初日はほとんど変化がなかったが、数日経つと、表面に微かな光が差すようになった。
角度によっては、花の彫刻の朱が映えることもあった。
ある日、団子屋の看板娘が店を覗き込み、声を上げた。
「高道さん、その鏡、最近なんか……前より“あったかい”気がする!」
「あったかい?」
「うん。なんかこう、見てもイヤな気持ちにならないっていうか……むしろ、ちょっと元気出る感じ?」
思わず笑ってしまった。あれほど「見たくないもんばっか」と言われていた鏡に、そんな感想が出る日が来るとは。
──それが、最初の“言葉”だった。
一週間ほど経った夜。
鏡の中に、少女の姿がはっきりと現れた。
「……今日ね、外から覗いた子が言ってくれたの。『この鏡、好き』って」
「よかったですね」
「……まさか、本当に映るようになるなんて」
「あなたが“映ってもいい”って思えたからですよ。誰かが見る、ということは、誰かに“見せたい”って思える自分がいたってことですから」
少女はしばらく沈黙したあと、小さく頷いた。
「私、これから……誰かの“大切なもの”を映したい。自分の顔とかじゃなくて、その人の、心にある何かを」
「それは、“ことのは堂”にぴったりの役目です」
そう言って笑うと、彼女の頬がうっすらと紅に染まった。
「……あんた、ずるいよ。そんなふうに言われたら、ちょっと嬉しくなっちゃうじゃん」
「よく言われます。だいたい仕事柄、黙って見守ってばかりですからね」
(本当は毎日心の中でツッコミ三昧なんだけど)
それからというもの、「ことのは堂」の奥に置かれた鏡の前には、ぽつりぽつりと人が集まるようになった。
家族からもらった思い出の品を抱えてきた子ども。
友達に恋心を抱いた娘さん。
新たな一歩に悩むお侍さん。
──皆、鏡に“何か”を映して帰っていった。
鏡はもう、自分しか見ない場所ではなかった。
鏡は、“誰かにとって大切なもの”が映る場所になったのだ。
そしてそのたびに──
カガミワラシの姿は、少しずつ透き通って、柔らかな光を帯びていった。
まるで、彼女自身が“誰かに見られること”で、存在に色を取り戻していくようだった。
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“見えなかったもの、映します。──磨きたての鏡、あります”
朱塗りの枠の鏡は、今日もことのは堂の奥で静かに光っている。
時おり、鏡の中から小さなくしゃみが聞こえるのは──
内緒の話だ。