表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/41

第2話「カガミワラシ、映らぬ自分」~あなたが見てくれるなら、わたしも少しは光れるかもしれない~

ことのは堂には、一枚の古びた鏡がある。

朱塗りの木枠に、繊細な花の彫刻があしらわれた手の込んだ造りで、一見すれば美術品のようでもある。だが鏡面は長年の埃とくすみによって、まるで曇天の湖面のように濁っていた。誰の姿も、ほとんど映らない。

「それ、売り物にはならんでしょうな」

と、店の常連である焼き団子屋の親父が、湯呑みを手に言った。香ばしい団子の香りがまだ鼻先に残る。

「うちにあったときは、“見たくないもんばっか映る”って言われましてね。商売に悪い気がして、物置に仕舞い込んでたんですよ」

「なるほど、それで……こちらに回ってきたんですね」

俺は静かに頷きながら、鏡の表面に手を伸ばす。冷たい。まるで誰かの気配が、内側に閉じ込められているかのようだった。

(これは、誰か……住んでるな)


夜更け、店を閉めたあと。

僕は鏡の前に膝を折り、ひとりそっと声をかけた。

「こんばんは。“ことのは堂”の高道です。もし、よければ少しお話ししませんか?」

曇った鏡はしばらく無言を貫いていたが、やがてゆらりと波紋が広がるように、淡く白い顔が浮かび上がった。それは──幼い少女の姿をした妖怪、“カガミワラシ”だった。


「……どうして、あなたには私が見えるの?」

か細い声。まるで地下深くから押し上げられてきた泡のような、ほとんど消え入りそうな声だった。

「“言葉を扱う者”には、曇りや反響の向こうにあるものが、少しだけ見えるようになるんですよ」

僕は言葉を選びながら静かに言った。

「……誰も、私を見てくれないの。みんな、自分の顔しか見ていない。私なんて、いてもいなくても同じ」

その言葉には、怒りよりも深い哀しみが滲んでいた。

苛立ちよりも、置いていかれた寂しさ。そんな音色の声。

「君は、ずっとその鏡に?」

「うん。私は“映す価値のある人”しか映せない。……誰かが『お前は綺麗だ』って言ってくれたら、きっと少しは光れるはずだったのに」

(……これは、思った以上に重症だな)

「じゃあ、試してみましょうか」

「試す?」

「“誰かが期待してくれたら力が引き出される”って現象が、心理学で“ピグマリオン効果”って呼ばれています。君もそれに似た力を持っているんじゃないですか?」

「……そんな、人間の理屈で……」

「でも、人間の“言葉”であなたの中が少しでも晴れるなら、悪くない話じゃないですか?」

少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……いいよ。でも……その代わり、ちゃんと磨いてね。ホコリまみれのままだと、私、クシャミ止まらなくなるから」

「妖怪でもクシャミするんですね」

「妖怪にも鼻はあるの!」

ちょっと怒った顔をしたその瞬間、くしゃみが「へっくちっ」と炸裂した。

鏡面が一瞬ぐにゃりと歪んで、僕の顔がアホ面に変わる。

──鏡にツッコミを入れられたのは、人生初だった。


それから僕は、毎晩少しずつ鏡を磨くようになった。

初日はほとんど変化がなかったが、数日経つと、表面に微かな光が差すようになった。

角度によっては、花の彫刻の朱が映えることもあった。

ある日、団子屋の看板娘が店を覗き込み、声を上げた。

「高道さん、その鏡、最近なんか……前より“あったかい”気がする!」

「あったかい?」

「うん。なんかこう、見てもイヤな気持ちにならないっていうか……むしろ、ちょっと元気出る感じ?」

思わず笑ってしまった。あれほど「見たくないもんばっか」と言われていた鏡に、そんな感想が出る日が来るとは。

──それが、最初の“言葉”だった。


一週間ほど経った夜。

鏡の中に、少女の姿がはっきりと現れた。

「……今日ね、外から覗いた子が言ってくれたの。『この鏡、好き』って」

「よかったですね」

「……まさか、本当に映るようになるなんて」

「あなたが“映ってもいい”って思えたからですよ。誰かが見る、ということは、誰かに“見せたい”って思える自分がいたってことですから」

少女はしばらく沈黙したあと、小さく頷いた。

「私、これから……誰かの“大切なもの”を映したい。自分の顔とかじゃなくて、その人の、心にある何かを」

「それは、“ことのは堂”にぴったりの役目です」

そう言って笑うと、彼女の頬がうっすらと紅に染まった。

「……あんた、ずるいよ。そんなふうに言われたら、ちょっと嬉しくなっちゃうじゃん」

「よく言われます。だいたい仕事柄、黙って見守ってばかりですからね」

(本当は毎日心の中でツッコミ三昧なんだけど)


それからというもの、「ことのは堂」の奥に置かれた鏡の前には、ぽつりぽつりと人が集まるようになった。

家族からもらった思い出の品を抱えてきた子ども。

友達に恋心を抱いた娘さん。

新たな一歩に悩むお侍さん。

──皆、鏡に“何か”を映して帰っていった。

鏡はもう、自分しか見ない場所ではなかった。

鏡は、“誰かにとって大切なもの”が映る場所になったのだ。

そしてそのたびに──

カガミワラシの姿は、少しずつ透き通って、柔らかな光を帯びていった。

まるで、彼女自身が“誰かに見られること”で、存在に色を取り戻していくようだった。



“見えなかったもの、映します。──磨きたての鏡、あります”

朱塗りの枠の鏡は、今日もことのは堂の奥で静かに光っている。

時おり、鏡の中から小さなくしゃみが聞こえるのは──

内緒の話だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ