第107話「月明かりのことのはと、笑うカエル」〜月下の小さな奇跡〜
夜風がすこし冷たくなってきた。
“ことのは堂”の障子を開け放ち、外の空気を吸い込む。
異界に来て、もうしばらくほど経つ。
タヌキと傘の喧嘩を仲裁した一件が妙に評判になってしまい、ここ数日は「巫さま相談会」とやらが勝手に開催されていた。
相談会といっても、別に宗教じみた拝金でも祈祷でもない。
茶と菓子を出し、話を聞いて、適当にうなずき、時々ぽろっと言葉を返すだけ。
それだけで、なぜか皆がすっきりした顔で帰っていくのだ。
「……ほんとにこれでいいのかなあ」
湯飲みの湯気を見つめながら、ひとりごちる。
人の心をほどく仕事なんて、自分には荷が重い。
ただ、ここに来てからというもの、言葉の重みが前よりも近く感じられるのだ。
誰かの言葉が、ちゃんと誰かの心に届いていく――そんな感覚があった。
そのときだった。
「た、助けてくだされぇぇぇぇぇぇぇ!」
戸ががらりと開き、ずぶ濡れのカエルが飛び込んできた。
頭には苔の葉っぱ、体には泥。どうやら妖らしい。
その後ろから、怒り顔の小坊主が竹箒を持って追いかけてくる。
「こらカエルっ! また池を荒らしおって!」
「ち、違うのです小坊主どの! 拙者、善いことをしようとしただけで……!」
高道は思わず立ち上がった。
「おふたりとも落ち着いて。まずは、濡れたままだと風邪をひきますよ」
差し出した布巾でカエルの顔を拭ってやり、湯を勧める。
小坊主には煎餅を。
怒り顔のまま、しぶしぶ受け取った。
「さて。どういうわけでこんな騒ぎに?」
話をまとめると――。
カエルの名はケロ左衛門。寺の池に住みつき、昼は睡蓮の影でうたた寝し、夜は僧たちの読経を聴いて過ごしていた。
そんな穏やかな生活が一変したのは数日前のこと。
「ある晩、小坊主どのがため息をついておられたのです。“誰も笑ってくれぬ説法など、やる気が出ん”と」
「……つい愚痴ったのじゃ。夜更けで誰もおらぬと思うて」
「それで拙者、なんとか笑わせて差し上げようと……池の底を掘ったのです」
「掘った!?」
「はい! 昔話で聞いた“笑う石”を探して。
見る者の心をほぐす、不思議な石でございましてな。
それを説法の台に置けば、きっと皆が笑うと思いまして」
高道は苦笑した。
真っ直ぐすぎるにもほどがある。
「でも、石は見つからなかった?」
「はい。代わりに、池の水が全部なくなりました……」
小坊主がまた怒鳴りかけたが、高道が手を挙げて制した。
「つまり、誰も悪気がなかったわけですね」
「……まあ、そうじゃが」
「池が枯れては魚も蓮も困るが、笑わせたいという気持ちも本物です」
高道はふたりの顔を見比べ、やわらかく微笑んだ。
「ねえケロ左衛門さん。あなたが掘った“笑う石”――それは、たぶんもう見つかっていますよ」
「えっ?」
「今、こうして笑ってる。
怒っていた坊主さんも、困っているあなたも。
互いを思って動いた結果、ちゃんと笑顔になってるじゃないですか」
ケロ左衛門がきょとんとした後、ぽろりと目を丸くした。
小坊主は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……まったく、妙な巫さまじゃ。
だが、悪くない気分じゃな」
「ありがとうございます」
高道は机の引き出しから、白紙を一枚取り出した。
筆に墨を含ませ、月の形を描く。
「これは“月明かりのことのは”といいます。
夜道を歩くとき、これを水に浮かべると、道を照らしてくれる。
池に沈めれば、月の光が水を呼ぶ、かもしれないと言われています(もっともらしいこと言ってるけど大丈夫か?汗)」
ケロ左衛門は震える手でそれを受け取った。
「ほ、ほんとうに……?」
「信じる者の心次第、です。
でも――“笑う石”を探すより、ずっと早いと思いますよ」
数日後。
寺の池には、清らかな水が満ちていた。
新しい蓮の芽がのぞき、月が水面にやさしく映っている。
その真ん中で、ケロ左衛門が蓮の葉に腰かけ、得意げに説法をしていた。
「笑う石は見つからなんだが、笑う“こころ”は掘り当てたのじゃ!」
僧たちがどっと笑い、小坊主までも腹を抱えた。
池のほとりに立つ高道は、そっと胸の前で手を合わせた。
「……よかった(まさか、僕の書いた紙にそんな効果があるなんて、まさかね)」
月が雲間から顔を出し、護符がふわりと光る。
その光が風に溶け、町のあちこちに届いていった。
その夜、“ことのは堂”の戸を叩く者がまたひとり。
翌朝にはまた二人。
噂はさらに広まり、巫さま相談会はますます盛況となるのだった。




