第106話「ことのは堂、今日も満員」〜心をほどく時間〜
朝霧の向こうに、ぼんやりと“ことのは堂”の看板が浮かぶ。
その下では、信じがたい光景が繰り広げられていた。
「巫さま! 今日こそ相談をお願いいたします!」
「順番守れってば! 昨日はあたしの番だったのに!」
「拙者、恋の祈願でござる!」
町娘、猫の妖、果ては小鬼まで入り乱れ、長蛇の列。
“ことのは堂”の戸口に並ぶその様子は、さながら縁日か何かのようだ。
店の主・高道はというと、奥で朝粥をすすりながら呆然としていた。
「……これは、夢じゃないよね」
昨日までは静かな通りの片隅の小店。
それが、たぬきと傘の仲裁をした途端に「言葉で心を癒す巫」だの「魂をほぐす言葉師」だのと噂され、こうして押しかけられているのだ。
「どうしてこうなったんだろう……」
ため息をつき、仕方なく戸口を開ける。
「巫さまー! 拙者からお願い申すっ!」
最前列の小鬼が飛び出した。額に小さな角、腰には風呂敷。
「うちのかか殿が怒っておりましてな! “あんたの角がまっすぐすぎて腹が立つ”と!」
「……角のせいなんですか?」
「たぶん心の角だと思うでござる!」
高道は眉を寄せ、しばし考えた。
そして、机の上の小筆をとると、白い紙の端にさらさらと書いた。
『まっすぐであることは、誇り。
でも、少し曲がると、風が通る。』
紙を手渡すと、小鬼は両手で大事に抱えた。
「……風が通る……! つまり、かか殿の小言も受け入れろと!」
「まあ、そんなところです」
小鬼は涙を浮かべ、頭を下げると走り去った。
その姿を見て、外の列からざわめきが起きた。
「巫さま、ほんとに言葉を書くだけで……!」
「心が軽くなるんだってよ!」
「わたしもお願いしたい!」
ざっ、と列が前に詰め寄る。
昼すぎ。
茶の香りがほのかに漂う店内には、次々と相談者が訪れた。
「夫の寝言が怖くて眠れませんの……」
「うちの提灯、最近笑うようになりまして」
「昨日亡くなった猫が、今朝ごはんを食べていったんですけど……」
どれもこれも一筋縄ではいかない相談ばかりだ。
高道は頭をかきながら、それでも丁寧に耳を傾ける。
不思議なことに、言葉を交わすうち、答えがふっと浮かぶ瞬間があった。
それは知識ではなく、気配のようなもの。
目の前の相手の“こころ”が、わずかに息をする音。
「……ああ、なるほど」
ときに自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。
夕方。
すっかり声も枯れ、最後の客を見送ったあと、軒先に腰を下ろす。
西日が瓦を朱く染め、遠くで太鼓の音がする。
「まるで駆け込み寺だな」
ぼそりと呟く。
けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
誰かが笑って帰っていく。その背中を見るたびに、胸の奥が少し温かくなるのだ。
店の隅に積まれた紙の束を数える。
“怒り鎮め”“言葉和らぎ”“笑い守り”――どれもその日、その場の即興。
それなのに、どのことのはも微かに光を宿しているように見えた。
手の中で、紙がふわりと震える。
見ると、墨で書かれた言葉の端に、金色の細い線が浮かび上がっていた。
「……おお?」
光は消え、ただの白紙に戻る。
気のせいかもしれない。けれど、どこかこの世界の“ことば”が、自分の言葉に呼応しているような――そんな予感がした。
夜。
“ことのは堂”の前を通りかかった町娘が、軒に吊るされた小札を見上げる。
そこには、昼間書かれた一文が残っていた。
『ことばは、風のように。
しずかに渡れば、心は動く。』
娘はそっと笑い、手を合わせるように頭を下げた。
その光景を、店の奥で高道はこっそり見ていた。
心の中に、小さな灯がともる。
「……風のように、ね」
湯気の立つ茶碗を手に取り、静かに息をつく。
外では鈴虫が鳴きはじめていた。
この世界に来てまだ間もない。
どうしてここにいるのかも、元の世界に帰れるのかも分からない。
けれど――。
言葉が、人を救えるなら。
その声に耳を傾ける限り、自分の居場所はきっとここにある。
そう思えた。
翌朝。
日の出とともに、再び戸口の前に列ができていた。
その先頭では、昨日の小鬼が妻らしき大女を連れて立っている。
「巫さま! 風、通りましたぁぁぁ!」
高道は思わず噴き出した。
笑い声が店の奥にこだまし、
“ことのは堂”の一日は、今日もにぎやかに始まった。




