第105話「タヌキの懺悔と傘の涙」〜すれ違う心、交わる瞬間〜
“ことのは堂”の前の通りが、朝から妙に騒がしい。
屋台の呼び声でも、祭囃子でもない。
どうやら――喧嘩の声らしい。
「この恩知らずの竹ボウキ野郎!」
「誰が竹ボウキですか! わたしは傘です!」
通りの真ん中で、タヌキと番傘が取っ組み合いをしていた。
番傘は自らの骨でタヌキの頭を軽く小突き、タヌキは丸太のような腹でぶつかって押し返す。
往来の人々は面白がって立ち止まり、口々に囃し立てていた。
異世界に来てまだ日が経っていない高道は、何がなんだか分からないままため息をつく。
「……喧嘩の仲裁なんて、大学のボランティア以来だな」
袖をまくり、二人の間に割って入った。
「はいはい、ちょっと落ち着きましょう。通りが通れませんよ」
タヌキが頬をふくらませて振り返る。
「巫さま、聞いてくだされ! こやつがわしのことを“もう用済み”とぬかしたのです!」
番傘も負けじと声を張る。
「違います! ただ、お天気が続いていたから、少し休んでいてくださいと……」
どうやら話がかみ合っていない。
高道は二人を“ことのは堂”の中に招き、火鉢の前に座らせた。
茶を淹れながら、静かに尋ねる。
「では順に話を聞きましょう。まず、タヌキさんから」
タヌキの話によれば、もともと彼は山から下りてきた野良狸。
ある雨の夜、行き倒れていたところを、この傘に助けられたという。
それ以来、傘を大切にし、どんな雨の日も持ち歩いていた。
ところが――。
「この前の晴れ続きの折、わしが“そろそろ一緒に出かけようか”と声をかけたら、“お休みください”と断られたのです! それが、もう用済みと同じではないですか!」
今度は傘が口を開く。
「わたしは……日傘にもなろうと練習していたのです。
けれど、日に当たりすぎて紙が焼けてしまって――。
だから、雨が降るまでお休みくださいと……それだけだったのです」
しゅんと項垂れた番傘の紙に、一滴の雫が落ちた。
それは涙に見えた。
高道は湯呑を置き、二人を見比べる。
「なるほど。お互いに、相手のためを思っていたわけですね」
「……え?」とタヌキが顔を上げた。
「タヌキさんは“傘に捨てられた”と思って悲しみ、
傘さんは“このままでは役に立てぬ”と思って悔やんでいた。
つまり――両方、思いやりの結果です」
タヌキの丸い目がゆらりと揺れた。
番傘の骨が、かすかに震える。
高道は微笑んで筆をとった。
白い紙の端に、さらさらと文字を書く。
『恩は、返そうとすると逃げる。
ただ、傘のように広げておけば、いつか雨の日に届く。』
「これは“ほどけ言葉”です。
お互いの心がからまったとき、これを開いてご覧なさい」
傘はそっとそれを受け取り、タヌキの方へ傾けた。
タヌキは鼻をすすり、尻尾で目をこすった。
「……わしが悪かった。疑って、怒鳴って。
おぬしの紙が焼けたら、わしが貼り直してやるからな」
「……はい。次の雨の日は、ご一緒しましょう」
ふたりの間に、やわらかな空気が流れた。
その晩、町には久しぶりの雨が降った。
“ことのは堂”の軒先で、仲直りしたタヌキと傘が肩を並べて歩いていく。
傘の骨にぽつぽつと雫が落ち、タヌキの毛皮をやさしく濡らす。
通りすがりの者たちは、その不思議な光景を見て微笑んだ。
翌朝には、「巫さまが言葉で喧嘩を止めた」「ことのはで心を和ませた」という噂が町じゅうに広まり――。
その数日後、“ことのは堂”の戸口には、早朝から人と妖の列ができていた。
看板には墨で書かれた新しい一文。
『巫さま相談会 本日もゆるりと開帳中』
高道はその文字を見上げて、苦笑した。
「……やれやれ、また面倒なことになりそうだな」
けれどその声には、どこか楽しげな響きがあった。




