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第104話「風を渡る舟」〜あの日の約束を胸に〜

 ヨイノの国に来て、七日が過ぎた。

 朝は川霧が淡く立ちのぼり、瓦屋根を妖の影がすべる。

 夕暮れには茜の風が吹き、人も妖も同じ道を歩きながら、「今日もいい風だったね」と笑い合う。


 高道は、そんな景色を見ながらようやくこの国の呼吸に馴染み始めていた。

 紙幣はなく、貨幣はすべて硬貨。五百円玉を束ねると、しゃらりと鈴のように鳴る。

 長屋の軒先では、味噌と煮物の匂いが漂い、どこからともなく三味線の音が流れてくる。

 現代と似ているのに、どこか遠く、夢の中のような国。

 ――それが、ヨイノの国だった。


 ある日。

 ことのは堂の縁側で高道が茶をすすっていると、どこからか「せんせーい!」という甲高い声が聞こえた。


 振り返ると、薄茶の髪をした少年が、木片を抱えて走ってくる。

 まだ十歳くらいだろうか。頬には元気なそばかす。名をセイという。

 ここ数日、毎日のように遊びに来る子だった。


「見て! 船、完成したよ!」

 セイは胸を張って、掌ほどの木の船を掲げた。竹ひごで帆を立て、帆には墨で「風」と書いてある。

 高道は笑って目を細めた。

「おお、昨日よりもずっと立派になったじゃないか。しかも名前まであるとは!」

「うん、せんせいが言ったじゃん。“言葉には力がある”って。だから風の字、書いてみた!」

「覚えてたのか」

 高道は苦笑しながら頭を撫でた。

「風があれば、どこまでも進める気がするんだ」

「うん! ぼく、この船で旅するの。あの山の向こうまで!」

 セイは小さな指で、川の上流にそびえる山を指さした。


「でもお母ちゃんが言うんだ。あっちは“帰れん川”だって」


 帰れん川。

 その響きに、高道の背筋がわずかに冷えた。

 この国では、生と死の境を流れる川があると聞いていた。

 渡った者はもう戻らない。誰もその姿を見たことはないという。


「……旅の相手は、誰と行くんだ?」

「ううん、ひとり。でも……向こうに、友だちがいるから」

 セイの声が、風に紛れて小さくなった。

「昨日、星になっちゃったんだ」


 その言葉に、高道はゆっくりと筆を置いた。

 セイは俯きながら船を撫でている。

 その指先が、わずかに震えていた。


「だからね、代わりにぼくが船を流すの。向こうでも遊べるようにって」

「……そうか」

 高道は膝を折り、セイと目線を合わせた。

「きっと、喜ぶよ。君の船、帆も心も、まっすぐだ」


 セイは照れくさそうに笑い、少しだけ目を潤ませた。

「ねえ、せんせい。一緒に流してくれる?」

「もちろん」

「約束だよ!」

 その声は、空の青に弾んだ。


 それからの日々、二人は川辺に通った。

 高道は木を削る手伝いをし、セイは紙の帆に絵を描いた。

 最初は船だったが、やがて鳥、灯籠、風車と形が変わり、まるで風を遊ばせているようだった。


「せんせい、なんで“ことのは堂”っていうの?」

「うーん、なんでだろう。言葉は葉っぱみたいだからかな。誰かの心に落ちて、芽を出すこともある」

「ふーん、難しい。でもね、ぼく、せんせいの言葉すき」

「どうして?」

「なんか……耳があったかくなるんだ」

 高道はその言葉に、思わず喉がつまった。

 たった一週間前までは、無機質な研究室に閉じこもって「ありがとう」の回数を数えていたのに。

 ここでは、一言の温度が確かに誰かを癒やしていた。


 しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。

 三日目の夕暮れ、セイが川へ来なかった。

 心配して長屋を訪ねると、母親が青い顔で戸を開けた。


「昼から熱が下がらなくて……医師も首を振って……」


 部屋の奥では、セイが浅い息をしていた。

 頬は赤く、唇は乾いている。それでも高道を見ると、微笑んだ。


「せんせい……船、完成した?」

「ああ。君の“風”の字がちゃんと帆になってる」

「よかった……。じゃあ、流してね。友だち、待ってるから」

「……セイ、一緒に行こう。きっと、すぐ良くなる」

「ううん。ぼく、もう風になるんだ」

 小さな声だった。けれど確かな響きだった。

「風になって、せんせいの言葉、運ぶの」


 その夜、行燈の火がふっと揺れた瞬間、セイの呼吸は止まった。


 翌朝。

 川のほとりに、小さな葬りの支度が整えられた。

 母親は泣きながら、木の船を抱えていた。

「……この船、あの子が“せんせいに頼んで”って」


 高道は川へ向かい、膝をついた。

 流れは穏やかで、陽光を映した水面がまぶしい。

 そっと船を浮かべると、風が吹き、帆の「風」の字がきらりと光った。


 ――ゆっくりと進む船のあとを、風が追いかけていく。

 それはまるで、セイの笑い声のようだった。


「……いってらっしゃい、セイ」

 高道は目を閉じ、胸の奥にこみ上げるものを押し殺した。

 帰ることばかり考えていた自分が、急に小さく思えた。

 この国には、泣きながらも誰かを想う人がいる。

 その想いを言葉にするために、自分はここへ来たのかもしれない。


 風が頬を撫で、髪を揺らした。

 どこかで鈴の音がして、ことのは堂の看板が小さく鳴った。


「……もう少し、ここで生きてみよう」


 高道は、川面の向こうで揺れる小さな帆を見つめた。

 帆は光に溶け、やがて空とひとつになった。

 そのあとに残ったのは、ただ、優しい風の音だけだった。

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