第101話「ことのはは、転」〜研究者、高道。理論とカフェインの果てに〜
午前二時。
研究室の蛍光灯が、ピッ、ピッと不吉なテンポを刻んでいた。
夜の大学というのは、なぜこうも「理性の限界」を試してくるのだろう。
心理学者・高道は、クマの濃さで世界を計れる男になりつつあった。
パソコンの画面には、無数のデータと文献。
テーマは「言葉の選び方による感情変化」。
──つまり、“ありがとう”を何回言えば人は幸せになるのか。
地味だが壮大、そしてなにより眠気を誘う研究だ。
「ありがとう、ありがとうございます、サンキュー……」
無意識に口に出してみる。
自分の声が虚しく反響する深夜の実験室。
……三回目でもう照れくさい。
「なんつって、ただ繰り返してもな」
高道は自分で頷いた。人間とは適応する生き物だ。良い意味でも、悪い意味でも。
冷めきったコーヒーをすすり、眉をしかめる。
味の中に、“後悔”と“徹夜”が溶けていた。
机の上には統計ソフト、分厚い心理学書、付箋の山、そして
── 一匹の招き猫。
金色で、目がちょっと斜め。大学近くの雑貨屋で買ったものだ。
先輩教授が「言葉には力がある」と言っていたのを思い出し、実験のお守り代わりに置いていた。
「何かを招いてくれるなら、データの収束を頼むよ……」
冗談まじりに話しかけるが、返事はない。無表情な陶器の笑みがこちらを見つめ返すだけだ。
──再びモニターの方を向くと、その時。
ふと視界の端で、何かが瞬いた。
論文のグラフの下、モニターに映り込む金色の光。
招き猫の目が、ほんのり灯っている。
「……ん? 気のせい?」
瞬きをしても、やはり光っている。
いや、まぶたの裏まで眩しい。
カフェインの摂取しすぎで幻覚か? ついに限界か?
そう思った瞬間、マウスがカチリと動いた。
誰も触っていないのに、ポインタがスルリと滑る。
行き先は、画面右上の“送信”ボタン。
「ちょ、ま、まさか自動送信!? まだ誤字チェックして──」クリック。
ビガビガビガーーーーッ!!
白い。
いや、白すぎる。
視界が一瞬でひっくり返り、世界そのものが電流にのまれたみたいに弾けた。
研究室の蛍光灯が光の津波となって押し寄せ、高道の網膜を灼く。まぶしさで目を閉じたのに、光がまぶたの裏まで染み込んでくる。
空気が、静電気でざらついていた。
髪がふわりと浮き、頬の産毛がぴりぴりと震える。
何が起こったのか理解するより早く、身体がふわりと持ち上がった。
足元の床が遠ざかり、背中に重力の名残が引っかかる。
机の上のコーヒーカップがふっと舞い上がり、黒い液体が無重力の球となって散った。
書類が紙吹雪のように舞い、付箋の黄色が流星群のように閃く。
招き猫の金色の目だけが、不気味に光を反射していた。
「……ちょっと待って。何これ、重力どこ行った?」
声は自分のものなのに、他人の声のように遠い。
脳がパニックを抑えようと、勝手に“分析”を始めた。
──現実逃避モード、起動。
「なるほど、これは……明晰夢。おそらくストレス由来の幻視。そうだ、そうに違いない。夢なら理屈が通らなくても当然……」
必死に理屈を並べて心拍数をなだめようとするが、手の感覚が妙にリアルだ。
指先の静電気、皮膚の粘つき、喉の奥の鉄っぽい味。
どれも夢にしては生々しすぎる。
「……うん、分析すれば怖くない、怖くな──いや、やっぱ怖いわ! なんで僕、浮いてんの!?」
思考が声になるたび、胸の奥がくすぐったく跳ねた。
浮遊感が強まる。まるで空気そのものが自分を飲み込んでいくみたいだった。
その瞬間。
天井の蛍光灯がパチンッ!と破裂した。
ガラスの破片がスローモーションで漂い、まるで時間が伸びたように見える。
壁際の時計がギギギ……と不気味な音を立て、針が逆回転を始めた。
秒針が一秒ごとに過去へ戻る。
心臓が跳ね、呼吸が乱れる。
なのに、頭のどこかが冷静に思う。
──“時間感覚の歪み”か。興味深い。
……いや、興味持ってる場合じゃない。
カフェインの苦い香りの中に、急に異質な匂いが混じった。
それは焦げた紙の匂いと、線香のような甘い煙の香り。
脳の奥が、ぐにゃりと歪む感覚。
背筋をつたう冷気が、まるで指先でなぞられるように生々しく、寒気ではなく“何かの気配”として這い上がってくる。
そして、聞こえた。
低く、遠く、けれど頭の芯に直接響く声。
空気を震わせるものではない。
鼓膜を介さず、脳の奥底──思考と感情の境界線に直接、言葉が流れ込んでくる。
「ヨイノ国へ──ことのはを運ぶ者よ」
背中の毛が総立ちになる。
意味は分からない。だが、確かに“呼ばれた”と感じた。
「……誰!? てか“ことのは”って何!?」
反射的に叫んだ瞬間、足元から光が弾けた。
世界が裏返るような衝撃。
床が消え、天井が遠ざかる。
高道は、宙に放たれた一枚の紙のように、光の渦へと飲み込まれていった。
ドンッ! という衝撃。
次の瞬間、高道は落ちていた。いや、転がっていた。
光の渦の中で、マグカップと一緒に洗濯機に放り込まれたみたいに回る。
上下の区別もつかず、思考だけが空回りする。
──研究者の脳はどんな状況でも冷静を保とうとする。
「えーと、現時点での仮説……これは夢。夢は無意識の投影。つまり、招き猫=心理的投影対象。転落感覚=現実への不安……」
そこまで理屈を組み立てた瞬間、バチィィッ!! 雷鳴が脳天を直撃。
「ぎゃああああッ!! 実験どころか感電死案件!!」
目の前に、招き猫の顔がにゅっと迫った。
にやり、と笑った……ように見えた。
高道の思考は、そこでぷつんと途切れた。
最後に頭をよぎったのは、データではなく一つの後悔だった。
「……明日、カフェイン断とうと思ってたのにな……」
──こうして、高道は異世界へと転がり落ちたのである。
このあと、彼が“言葉の巫”と呼ばれる日が来るなど、
本人はまだ知る由もなかった。




