第1話「ミミノツバキ、声を聴く」 ~耳を澄ませば、あんたの声が届くかもしれない~
ヨイノ市──人間と妖怪が静かに共存する、江戸めいた町の外れに、しんと静まる一角がある。そこには、町の喧騒から距離を取るようにひっそりと建つ、一軒の古い長屋があった。軒先に掛けられた木札には、筆文字でこう書かれている。
「ことのは堂」
言葉にまつわる品々を扱う、ちょっと風変わりな店だ。そしてもう一つの顔として、「悩みごとの相談処」という裏看板も掲げている。
今宵、その暖簾をくぐったのは──長い耳をした、小柄な妖怪の少女だった。着物の袖で耳を包み隠すようにしながら、戸口で立ち止まる。足取りはそろそろと慎重で、まるで音を立てないように歩こうとしているようだった。
「いらっしゃい、ツバキさん」
声をかけると、少女──ミミノツバキはぴくりと耳を揺らし、小さく頭を下げた。
「……お騒がせして……すみません。今夜は……少し、静かにできそうな気がしたので……」
その声は、まるで綿毛のように儚く、かすかに震えていた。
僕は穏やかに微笑みながら、手で奥を指し示す。
「構いませんよ。好きなだけ、静かにしていってください」
内心ではちょっと緊張しながらも、努めて落ち着いた声を返す。彼女の聴覚は尋常じゃない。下手に心の動きが出ようものなら、全部バレる。
(……この子、前回来たときは、蚊の羽音に泣き出してたよな。今日は一体、何が聞こえてるんだ?)
ツバキは部屋の隅の座布団に腰を下ろし、長い耳をぎゅっと押さえた。その仕草はどこか痛ましく、そして愛おしいほどに繊細だった。
「……裏の長屋の夫婦喧嘩。柱を叩く音。猫が魚の骨を噛む音……あと……」
彼女はゆっくりと、こちらに顔を向ける。
「……あなたの、心臓の音。少し、速いです」
(おおぉう……!バレた!?)
僕は一瞬固まりかけたが、なんとか表情を保ちつつ、やや強張った笑みで返した。
「……最近、ちょっと歩きすぎましてね。代謝がよくなったというか。あはは……」
火鉢に炭をくべて場をつなぐ。気まずさを煙に巻こうとしたが、ツバキの耳には無意味だったろう。
「ツバキさん、“聞こえる”ってのは便利なようで、選べないと苦しいですよね」
「……はい」
彼女はこくりと頷いた。
「音を切り離せたら……と思うことがあります。でも、耳をふさげば……誰かの優しい声まで、遠ざかってしまう気がして……」
「ええ。でもね、音って、“選ぶ”ことができるんです。人間の脳は、騒がしい中でも必要な音だけを拾うんですよ。“カクテルパーティー効果”って言います」
「……カクテル?」
彼女の声にわずかに興味の色が差した。
「に、西の国にあるお酒の名前です。祭りのような賑やかな場でも、自分の名前が呼ばれたら気づくでしょう?あれです。必要な情報だけを拾う、脳のフィルター機能です」
──まあ、妖怪にそのまま当てはまるかどうかは、分からないけど。
ツバキはゆっくりと目を閉じ、しばし黙った。暖簾の向こうを風が通り抜ける音さえ、彼女の耳にはきっと鮮やかに響いているのだろう。
「……それは、わたしにも……できるでしょうか」
「できますよ」
(断言しちゃったけど……まあ、やれるって信じさせるのが、相談屋の仕事だ)
彼女の耳がぴくりと動いた。そして、しばらくして──
「……思い出しました。少し前に、近所の男の子が、私の落とした団子を拾ってくれたことがあります。“気をつけてね”って……それが、今、はっきり聞こえました」
目を開いたツバキの顔は、ほんの少し和らいでいた。
「それは、“必要な声”だったんでしょう。ツバキさんの耳が、ちゃんと選んだんですよ」
「……選んだ……」
「耳の良さってのは、情報量じゃなく、“選ぶ力”です」
彼女は、そっと自分の耳に手を当てた。これまで怯えるように押さえていた仕草とは違い、今はまるで慈しむような優しさがこもっていた。
「ありがとう、ございます。……あなたの声も、聞いていて、少し落ち着きます」
(……あぶない、今ちょっと照れたぞ僕…)
「こちらこそ、話してくれてありがとうございます」
ふと視線を外すと、棚の上の猫の置物がこちらを見ていた──と思ったら本物だった。
「……あれ? この猫、動いてません?」
俺が指差すと、ツバキは小さくうなずいた。
「たぶん、隣の長屋の飼い猫……ときどき、うちの団子を盗みにきます……」
その瞬間、棚から団子をくわえた猫が「シャー!」と奇声を発し、颯爽と逃走。俺は反射的に声を上げた。
「あ、こら待て!まだ一口も食べてないんですよ!」
ツバキがくすっと笑った。
「今度、今日のお礼に、私のお団子差し入れに持ってきますね。」
(……笑った……!)
ちょっと得意げな気持ちで火鉢にもう一つ炭を足す。僕の心臓の音は、きっとまた少し速くなっていただろう。
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数日後。「ことのは堂」の軒先に、新しい商品の木札が掛けられた。
『耳すまし団子新発売──今夜、あなたの声を思い出す』
柚子の香りがふわりと漂う、小さな団子。食べた人は、“誰かの優しい言葉”をひとつだけ思い出すという。噂が噂を呼び、早くも近所の人気商品になりつつある。
『……いらっしゃいませ。よかったら……あなたの声を、聞かせてください』
ミミノツバキの耳は今日もよく聞こえている。けれど、その表情には、騒音ではなく、人の声を聞きに来た妖怪の穏やかな決意が、そっと宿っていた。