鬱屈
結局は才能と運。
私は世間から見れば若い方であるが、年下の人々が社会的に活躍しつつある。そのような世代だ。
良い環境に恵まれ、才能を伸ばして社会から必要とされる存在となる。こう考えると成功するというのは、条件からして非常に難しい。
環境が良く、才能に恵まれなかった場合を考える。あなたは裕福な家庭に生まれ、親から与えられた様々な機会を享受するとしよう。ピアノ教室へ通えば自分よりも優れていて、努力では辿り着けない存在がいる事でしょう。次はテニスクラブに入会する。そして血の滲むような努力をし、寝る間も惜しんで没頭しました。それでも…それでも…厚い壁がすぐに来る事になります。全国大会ですら行けないでしょう。才能の無さは、最高の人物と関わる事すら出来ないのです。
歳を重ねるごとに自分の人生を振り返ります。すると与えられた環境と、凡人である自分に絶望するでしょう。人のせいではない。責任の所在は己にしかない。終わらぬ自己嫌悪に悩まされ、精神がボロボロになり、更に時が経つごとに増幅してしまう。
いつか凡人でもいいから幸せでいようと考える事になります。残念ながら、幸せになる事は才能なので永遠に苦しむ他ない。
逆に才能に恵まれ、環境が良くない場合を考える。
これはあなたであり、あなたではありません。意味が分からないと思いますが、私は誰にでも当てはまる事だと思うのです。
才能はいつも人との比較により発見されるものです。自分はこれに向いていると、自発的に知る事は無理に近いでしょう。それも人から指摘されて自覚を持つケースが殆どであり、環境が良くないというのは、指摘されない事を指します。
才能とは、武術、芸術…挙げるとキリがないほど、つまり万物とセットになっているようなものである。
自分を知る過程で、全ての適正を計るのは不可能であり、もはや普通のことであろう。
幸せでありたいと願う事は、なぜここまで苦しいのか。