婚約破棄されたリザード大好き侯爵令嬢、追放直前に初恋の君が隣国の王子になって迎えにきたようです。
「シェイファー・ストックウェル。お前と一緒にいるのはもう我慢ならん! 婚約を破棄する!」
鼻息を荒くしながらそう宣言したのは、この国の第一王子、ドン・ハルヴァン様。
ドヤ顔でおっしゃっていますが、今は各国の主要人物を招待した交流のパーティの最中。
自国の赤っ恥を晒している状況に、私の胃は重くなる。
ドン様の隣には、胸に立派なものをお持ちの金髪美少女、リンダの姿。
その男爵令嬢がシナを作ってドン様に寄り添っている姿は、まるで甘い香りに惹かれただけのコバエのよう。
「婚約破棄、でございますか」
私はため息を吐きそうになるのを耐えながら言った。政略結婚というものを、理解されているのかしら。
私たちは十九歳で、まだ親の管理下にある状態。
いくら王子であるドン様が私との結婚を拒もうと、どうにもならないことだというのに。
拒めるものなら、私だってとっくに──。
胸の中から出そうになる拒絶反応を、いつものように押し殺してドン様を見る。
ドン様は私を大きく見下げると、勝ち誇ったように言った。
「シェイファー、お前はリンダにいつも酷いことをしていたそうだな」
「そうなんですぅう。シェイファーさまがぁ〜、わたくしにトカゲを押しつけてきましたのぉ、こわぁい!」
彼女の言う〝トカゲ〟とは、リザード族のこと。
私はペトゥララというリザード族の女の子と、一緒に屋敷で暮らしている。
私と一緒にいたララに対して難癖つけてきて、さらには差別用語を連発していたあなたが発端なのよ。私はそれをじっくりと諭しただけなのだけれど。
「それにぃ、シェイファー様ったらめちゃくちゃ怒ってくるしぃ〜」
「かわいそうなリンダ……! シェイファー、お前の悪事は全部わかっているんだ! この売国奴!!」
大事なララを傷つけられて、怒るなという方が無理。
それに、売国奴って。
この国は今後、リザードの国であるレイザラッド王国と同盟を結ぶ必要があると、こんこんと言って聞かせただけなのに。怒りを顔に出した覚えはないわ。
私はいつかくる同盟のために、この国の価値観を変えようとずっと奔走してきた。それが悪事だというのかと、私は呆れると同時に怒りを覚える。
まったく、周辺諸国の主要を招いての席でこんなことを言い出して、どのような評価を受けるかわかっているのかしら。
国王陛下がお風邪を召してしまったのは仕方ないにしても、代役としてドン様にこの場を仕切らせるのは大間違いだわ。
彼が困らないようにと、あれこれフォローしてまわっていたのだけど、それがまた気に障ったらしい。
一気に爆発してしまったドン様は、お気に入りの男爵令嬢の言い分を盾に、婚約破棄を宣言したというわけ。情けない。
リザード族は、十一年前……私が八歳の時までは、この国で一番地位の低い種族だった。
残念ながら、今もその地位はほとんど変わっていないのだけれど。
リザード族は人よりも大きく、男女共にがっしりとした筋肉を持っている。
見た目は、太くて長い尻尾が生えているくらいで、さほど人と変わりはないと私は思ってる。
たしかに、腕の一部や足、それにこめかみのあたりにリザード族特有の鱗があるけれど、それだけのこと。
金色の中の黒い瞳はゾクっとするほど美しいのよ。それを『冷たい』だとか、『何を考えているかわからない』なんていう人の気がしれないわ。
リザード族は国に管理されていて、個体数は人間に比べて圧倒的に少なかった。
力が強いので需要があり、労働力としてこの国で使われていた。
昔、私の家にも一年間だけリザード族の男の子を雇っていたことがある。
名前をガイアと言って、当時十一歳。私は七歳だったわ。
私は、ガイアが大好きだった。
ガイアはおしゃべりな方じゃなかったけど、大きくて、力が強くて、優しくて、たくさん遊んでもらった。
そんなある日、ガイアは私に言ったの。
『リザード族を忌み嫌い、恐れ、蔑む者が多い中で、どうしてシェイファーだけは俺をまっすぐ見てくれるんだ?』
って。
そう問われて、私は初めて気づいた。
私の家族も、屋敷に仕えるみんなも、ガイアをただの労働力としか見ていないんだって。
休みなく使える頑丈な労働力……そんな認識なんだって。
『ガイアが、好きだからよ?』
私は、そう答えた。
今ならもっと上手く言えるけれど、当時の私にはこれが精一杯だったの。
『ありがとう。俺もシェイファーが可愛くて仕方ない。大好きだよ、シェイファー』
ガイアの瞳も、ひんやりとする肌も、手触りのいい鱗も、全部全部大好きだった。
ずっとずっと、ガイアと一緒にいられると思ってた。
でも一年が経ったある夜、私はいきなりガイアに別れを告げられた。
民族解放団体を名乗るリザード族のリーダーに言われて、南の枯れた大地に行かなくてはならなくなったって。
このハルヴァン王国に住むリザード全員が、一夜にして大移動を始めたの。
行かないでって私は泣いてお願いしたけど、虐げられている同胞を解放しなければ、リザード族の未来はないからと言われた。
人が、リザード族に酷い扱いをしたせいで、私たちは別れなきゃいけなくなった。
まだ八歳だった私だけど、これほど人であることを恥じたことはなかったわ。
忍び込んできたガイアが、また窓から去ろうとした時。
『ガイア、私が大きくなったら迎えに来てね! 私をお嫁さんにしてね!』
私は泣きじゃくりながらそう叫んでいた。
振り向いたガイアに私は手を取られる。その手がガイアの口元に寄せられると、チロ……と何かが当たった気がした。
だけどガイアは、とても悲しそうな瞳をしていて。
彼はあのとき、私がドンの婚約者になる話を聞いて知っていたのかもしれない。
ガイアの背中が見えなくなるまで見送ると、ひとりの女性のリザードがよろよろとやってきた。
どうやら追手から隠れてうちの庭で休んでいたらしい。
『お嬢さんは、私たちリザード族を、嫌ってないのですか……?』
『嫌うわけがないわ! リザード族は、強くて優しくて、美しいもの!』
私が答えると、そっと小さなリザード族の赤ちゃんを見せられた。
『南の土地に行くまで持たなくて……今、産んだばかりの私の子どもです……』
私は驚きながらも慌ててタオルを持ってきて、そっとその赤ちゃんを拭いて包んであげる。
『私は憲兵に追われています……無事に南の土地に行けるかわからない。着いたとしても、生まれたばかりのこの子は気候の変化についていけず、死んでしまう可能性が高い……』
女性はポロポロと涙を流して。
『どうかどうか、この子の面倒を見てくださいませんか……! 生きていれば、いつか必ず迎えにきますので……!』
そう頼まれた私は、嫌だと言えるはずがなかった。
その場でペトゥララと名付けられた赤ちゃんを、絶対に大切に育てると約束した。
リザード解放運動があってから、ハルヴァン王国にはほとんどリザード族がいなくなった。
この国に散らばっていたリザードは、誰も住んでいなかった南の枯れた大地に住み始める。
それから七年間は実質の治外法権となってはいたけど、リザード族は個体数を増やし続け、今から五年前に独立国家を正式に樹立。
民族解放団体のリーダーであった、レッドという人が王位についた。
その時に国名がレイザラッドに定められて、王はレッド・レイザラッドと名乗っている。
私はというと、あの女性との約束通りにララを大切に育てて、姉妹のように仲が良くなった。
何度か南の大地に母親を探しに行こうとララに言ったのだけど、私のそばにいたいからいいって、聞かなかったわ。
この国のリザード族の総数が減って、ますます白い目で見られても……心無い言葉で刺されても、ララは私から離れたがらなかった。
レイザラッド王国が樹立する一年前の十四歳の時に、私はドン様と婚約させられた。
ドン様はララへの侮辱がひどくて、何度殴りたくなったかわからない。
ララが『私は大丈夫よ』と涙を押し殺しながら耐えている姿を、どれだけ見たことか。
そしてそれは、婚約してから今になっても変わらない。
目の前のドン様は、私の〝悪〟とされる部分を次々と並べ立ててくる。
「あんなトカゲ女を妹のように思うなど、頭がおかしいとしか思えん!」
「本当ですわぁ!」
「肌も醜く、今にも人を殺しそうな目をしていて気持ちが悪い!」
「きっと、本当に殺そうとしているのですわぁ! 早く処分してしまった方がいいと、リンダは思いますぅ」
「まったく、リザード族というものは危険極まりない! そんな種族に国を売ろうとする愚かさがわからないのか!」
「そうですわそうですわぁ!」
「大体にして、リザード族とは暴力的で知恵もないバカ、見た目は醜悪、この世に間違えて作り出されたとしか思えん! リザード族など、この世から消えてしまえばいいのだ!」
私のお腹の底から、なにかが沸き上がってくる。
この世に生まれて、同じ世界で暮らしている者同士だというのに……どうしてそんな風に思えてしまうの?!
私は叫び罵倒したい感情を必死で抑えた。
それをしては、ドン様と……いえ、ドンと同じ人種になってしまう。それだけはイヤよ。
「彼らは建国し、もう私たちの手からは離れているのです。いつまでも他国民を侮蔑していては、国政に支障をきたすのではございませんか?」
言いたい言葉をすべて抑え込んでも、怒りはふつふつと湧いて出てくる。
「勝手に独立宣言をしただけだろ。〝国民〟などという言葉であいつらを俺たちと同じ人扱いするな。あいつらは、トカゲだ」
「人とは違う種族であることがなんだというのです。リザード族は強く逞しくあります。私たち人間と比べてもその強さは歴然……この意味がわからないのですか?」
「うるさい! お前は蛮族に肩入れをする反逆者だ! 俺の国を貶めようとする奴は、追放してやる! 衛兵! こいつを捕らえろ!!」
え、うそでしょう?
今は全権をドンに委ねられていると言っても、あまりに横暴がすぎるわ……!
衛兵たちは一瞬躊躇していたけれど、顔を見合わせあった後、命令に忠実に行動を始めた。
暴れたりしても無駄なことはわかっているから、見苦しいことはしない。
けれど、ドンの思うようになってしまうことが悔しい……!
衛兵が私の目の前に来た瞬間、周りが異様にざわつき始めた。
何事かと衛兵が振り返っている。私もその隙間から奥を見た。
「リザードだ……」
「リザード族よ!」
他国では見ることのないリザード族を目の前にして、それでも各国の主要人物たちはさすがにみんな冷静だった。ドンとはわけが違う。
「なんだ、お前はなんなんだ!!」
慌てふためくドンに、そのリザードは悠々と視線を送っている。
堅苦しいと言わんばかりに着ているリザードの服は、王族であることを誇示するべく作られたような、見目鮮やかな刺繍の入ったもの。
その彼の目が、ドンから私に流された。
「彼女を追放するつもりなら、俺がもらい受ける」
彼からの視線と言葉を受けた私の胸は、ドクンと大きな音が鳴る。
もしかして、彼はガイア?
面影が……
「トカゲの国の者など、招待していないぞ!!」
「周辺諸国の要人を招いていると聞いている。なぜ我が国に招待状を出さない」
「気持ちの悪いトカゲなんぞ、呼ぶわけがないだろう!」
「こちらからは対顔すべく何度も打診していたが、誰かがハルヴァン国王への信書を握り潰していたようでな。直接やってきたというわけだ」
「っく! 蛮族が……!」
悪態をつきながらも腰が引けているドンを尻目に、彼は私の前にやってきた。
そしてその大きな体をかがめて膝をつき、長い尻尾をスラリと伸ばしている。
「申し遅れた。俺はレイザラッド王国の第一王子、ガイア・レイザラッドだ」
「ガイア……様」
やっぱりあのガイアだわ……
ガイアが、来てくれた……!
レッド・レイザラッドに息子がいたという話は聞いたことがないけれど、それでもガイアが言うならきっと本当だわ。
それより、再会できたことがなにより嬉しい。
ガイアは私の、初恋の人で……今でもずっと大好きな人なんだもの……!!
「この女とトカゲを早く追い出せ!」
感動に浸っていたいというのに、ドンが邪魔をしてくる。
飛びかかってくる衛兵を前にガイアは立ち上がると、バシンと尻尾で彼らを一蹴した。
衛兵はあっという間にバタバタと倒れて床に臥してしまっている。
……強い。
リザード族は強いとわかっているけれど、その中でもガイアは群を抜いているんじゃないかしら……。
「なにしてる、かかれ! かかれーー!!」
ドンの言葉に衛兵はたじろぎながらも剣を抜いた。
その瞬間、ドンッとでも音の出そうな威圧を肌に受ける。金色の瞳が衛兵を睨み、睨まれた衛兵は金縛りにあったかのように動けないでいる。
呆然としていると、ガイアがもう一度私の方に体を向けた。
「この王子に言いたいことがあるなら、全部ぶちまけてしまうといい」
私がガイアを見上げると、彼はこくりと頷いてくれる。
ずっとずっと溜め込んできた、ドンへの怒り──それを伝えるチャンスだと?
今までのように我慢したところで、もう追放されるだけだというなら……!
私もガイアにこくりと頷き返して、ドンの前へと一歩出た。
「ドン様」
呼びたくもない名を呼ぶと、彼は嫌そうな顔で目だけを私に向けた。
嫌味を言われる前にと、私はすぐさま話し始める。
「レイザラッド王国は建国されたばかりではあれど、その国力は凄まじいものです。過酷な南の大地で生き抜く力と知恵。私たち人間がかなうものではありません」
「それがなんだ! さっさと目の前から消え……っ」
「最後までシェイファーの話を聞け!」
「っひ!」
ヒュンッとガイアの尻尾がドンの鼻先を掠める。
私の言葉が中断させられることはないのだと、安心して話を続けた。
「この国は、ずっとリザード族を虐げてきました。あなたはずっと、彼らのことを卑しいと……暴力的で知性のかけらもないとおっしゃっていましたね?」
「その通りだろうが! 腕力ばかり強いバカ、すぐキレる単細胞、今だって衛兵を蹴散らした! 暴力以外の何ものでもない!」
「暴力?! あなたたちのリザード族を差別する言葉は、暴力ではないとでもおっしゃるつもりですか!!」
思わず感情的になって声を上げてしまう。
ガイアがそっと肩に手を置いてくれた。代弁してくれてありがとうと言ってくれている気がする。
私は主張を続けていいのだわ。
「彼らは、自分と自分の大切な者の危機を感じた時には抵抗をします。当たり前の話ですわ」
それはそうだと各国の代表が賛同してくれている音がした。
そう、普通は理解できるの。これがわからないあなたの方が異常なのよ!
「彼等は何十年何百年と、強制労働をさせられても耐えていたのです。人に何を言われても、耐えて耐えて……我慢強く、他種族に優しい民族、それがリザード族です!」
命の危険、種族の危険を感じたからこそ、彼等は十一年前にこの地を去った。それだって賢明な判断だったのよ。
「かつて、この国にリザードがいた頃、労働も結婚も、リザード族はすべて人に管理されていました。それがなぜだかおわかりですか?」
「……こんな気持ちの悪いトカゲが数を増やすと見栄えが悪く、醜い、恥ずかしい国となるからだ」
「違います。数が増えると、人はリザードに太刀打ちできなくなる。数の利で支配しようとしていたのです、我が国は!」
この国の、古くからの歴史。
力の強いリザード族が怖くてそうしたというのも、わからなくはない。
けれど、彼等は物じゃない。
種族は違えど、心を持ち、この地上を共に生きていく仲間なのよ!!
だけど、どれだけ説明をしても、ドンはまだ理解できていないよう。不可解な顔を戻そうともしていない。
私はひとつ息を漏らして、次の言葉に移る。
「しかし我慢強いリザード族も十一年前、事情のある者を除いて、ほぼ全員がこの国から解放され南下しました。当時の民族解放団体のリーダーであった、現在のレッド陛下のご主導で」
「ああ、あの時はスッキリしたよ。ようやく醜いものを見ずに済むとね」
「あなたは……どれだけ……っ」
わなわなと手が震えてくる。
この男の物の見え方が気持ち悪くて仕方ない。
国益の面から見ても、この出来事は退廃への序曲だったというのに。それに気づかない愚かしさに、苛立ちが治らない。
「リザード族は自分達だけの国を作り、現在その総数を増やし続けているのです。逆に我が国はリザード族を失い、国力は下がる一方……」
「リザード族など、根絶やしにすればそれで解決する!」
……は?
言葉が、通じない……なにを言っているの、この人は!!
ドンの根絶やしという言葉に、私の怒りは頂点に達してしまった。
「リザード族の命のみならず、自国の民の命まで! どれだけ犠牲にするおつもりなんですの!!」
私の大きな声に、周りが驚いているのがわかった。
でももう止められない!!
「将来一国を統べらんとする者が、ガイア様を国賓として招かぬなど、言語道断です! 婚約破棄、並びに追放、謹んでお受けいたしますわ!!」
ドンのいる国なんて、こっちから願い下げよ!!
喜んで出て行ってやるわ!!!!
「トカゲ一匹に、なにをそんな……」
私の勢いに押されたドンが、ポカンとしながら半分笑っている。
事態の重さに気づいていないその顔を、一秒だって見ていたくない。
ドンから目をそらすと、各国の主要人物が私を取り囲み始めた。
「追放されるなら、ぜひ我が国に!」
「いや、うちの第二王子の婚約者となってもらえないか?!」
「我が国でぜひレイザラッド王国との橋渡しを!」
「いつも見事な振る舞いと教養に舌を巻いていたのです。ぜひ僕の元へと嫁に来てください!」
わいわいと人が押し寄せてきて、私は戸惑った。
これは、思いもしていなかった事態だわ。
なぜか私、各国から勧誘されているのだけれど……
「お前ら……っ」
大嫌いな声が上がった。
仕方なくそちらに目を移すと、ドンは焦るような顔で私を見てる。
「こいつは俺の女だ! 俺の女に触れるな!」
は? なにを言っているの?
誰があなたの女??
「ドンさまぁ!? ようやくこの女を追放できるんですから、放っておきましょうよぉ!」
「触るな!! お前みたいなバカ女との遊びは、終わりだ!!」
「きゃっ」
ドンに払われたリンダは、尻もちをついて重そうな音を響かせた。
「ひ、ひどぉい……! うわぁあん!!」
遊ばれていると気づかなかったあなたもあなただけど、これに懲りて人の物には手を出さないことね。
ドンはそんな彼女に見向きもせずに、私に興奮した眼差しを向けてくる。
「俺の許可なく結婚など、勝手なことは許さんぞ! シェイファー!」
一体、なにを言っているのか……私を追放したのは、あなただというのに。
「勝手を言っているのは誰だ」
低くともよく通る声が、場内に響いた。
ガイアがずいっと前に出て、ドンを威圧している。
「シェイファーも俺たちリザード族も、お前の道具やおもちゃじゃない。なんでも自分の思い通りになると思うな!!」
怒気の含まれたガイアの一喝。
空気はビリビリと走り回り、誰もが圧倒されて言葉を失った。
ドンもなにかを言おうと口は開いているけど、言葉が出ていない状態。
何度かドンが口をパクパクとさせたところで、奥の扉が開いて誰かが咳をしながら入ってきた。
「父上!!」
ようやく声の出たドンが、父親……国王陛下に向かって走っていく。
「父上、こいつらが俺の婚約者を勝手に連れて行こうとしてるんだ! どうにかしてくれよ!」
国王陛下はドンをチラリと横目で見た後、そのまますれ違った。
熱があるためか少しよろけながらも、私たちの元へと歩んでこられた。
周りの人たちが道をあけていて、私たちは陛下と対面する。
「事態は聞いた。申し訳なかった、ガイア王子。至らぬ息子が無礼を働いた……許してほしい」
「父上!! そんなやつに謝るなよ!!」
走り寄ってきてそういったドンに、陛下がガツンと一発頭を殴った。周りがざわっと声を上げる。
陛下は目を吊り上げさせて、息子であるドンを睨んだ。
「我が国は、レイザラッド王国にも招待状を送っていたはずだ。握り潰したのは誰だ!! レイザラッドからの信書が届かなかったのは、なぜだ!!」
「う、っく……」
信書が握り潰されていたと聞いた時から怪しいとは思っていたけど……。
部屋の中から物証が出たのかしら。彼の短慮さが嫌になる。
「見苦しいところをお見せしてしまった。ドンは王籍から離脱させ、国外追放処分とする」
「そんな、父上!!」
「ですから各国のみなさまとの関係は、どうぞこのままに……」
国王陛下自らが頭を下げられた。
そんな陛下の姿を見て、ドンはようやく事態の重さを悟ったように顔を青くし始める。
「ち、父上!!」
「うるさい、連れて行け。ここまで我が息子が国に害を及ぼす者だとは、思ってもいなかったわ!」
気づくのが遅いわ、陛下……。
でも私もこの六年間、時勢の理解を深めさせて温和な人になってもらえるよう頑張ってきたけど、すべて無駄だった。
ほんの少しでも、聞く耳を持っていたら結果は変わっていただろうのに。
でも同情するつもりはこれっぽっちもない。改心できる機会は何度もあったはずなのに、それをしなかったのは自業自得という他ないもの。
ドンは衛兵に引き摺られるようにして退場していった。ようやく顔を見ずに済むかと思うとホッとする。
「すまなかった、シェイファーよ」
陛下が私に謝ってくれたけれど、私はなにも答えたくはなかった。
それでも陛下は少し言いにくそうに言葉を続けている。
「王妃教育を終わらせ、すでに政務にも携わっているそなたに、この国を離れられては困るのだ。第二王子の婚約者となり、この国の発展と向上のために尽くしてもらえまいか」
第二王子はまだ八歳。ドンと違って純真だけれど、婚約者になれるかなんていうのは別の話。
十一歳も年の離れた女が婚約者になるなんて、王子殿下もかわいそう。
「すまないがハルヴァンの王よ」
国王陛下を前に真っ向から否定はできず、どう断ろうかと思案していると、ガイアが声を上げた。
「先に求婚したのは俺だ。シェイファーには、俺への返事を先に聞かせてもらう」
ふと見上げると、ガイアが真剣な顔で陛下に訴えてくれている。
陛下は「そうだな……」と言葉を濁し、距離を取るように数歩下がってくれた。
ガイアは私の顔を覗き込み、金色に黒の美しい瞳を向けてくれる。
こんなに間近でガイアの瞳を見るのはいつ以来かしら。ああ、胸の音がうるさいわ。
おでこがくっつきそうになるほど近づいてきたガイアは、周りに聞こえないようにそっと話しかけてくる。
「シェイファー……俺を覚えているか?」
「はい……はい、ガイア様……!」
「昔のように、ガイアと」
「ガイア……」
優しく笑うガイア。涙が溢れそうになる。
「来るのが遅くなって、すまない」
「いいえ……いいえ」
「今でも俺のことを好いてくれているか?」
「当たり前よ、いっときも忘れたことはないわ……! こうやって邂逅できて、本当に……私、うれしくて……っ」
優しく髪を撫でられる。
胸が、苦しいくらいに鳴っているのが自分でわかる。
「美しくなっていて驚いた。あの頃からずっと……そして今も、シェイファーは俺の大切な人だ」
あの頃から……そして、今も。
お互いに気持ちは同じだったのね……。
嬉しい。肌が喜びを放出するように、全身が熱くなる。
「シェファー、俺の元へ嫁いでくれ。絶対に人間だからと差別なんかしない。」
私はそっと微笑んで見せた。わざわざ言わなくても、私は信じている。
不遇な扱いを受けてきたからと、人間のように報復を考えるような種族じゃないことは。
報復を考えていたのなら、すでにこの国は滅ぼされているに違いないのだから。
「私、ずっとガイアを待っていたのよ……あの時の約束を覚えていてくれてありがとう……」
「シェイファー」
あの日……
今生の別れになるのは嫌だと叫んだ、あの日の約束。
『ガイア、私が大きくなったら迎えに来てね! 私をお嫁さんにしてね!』
あの約束は。
十一年もの歳月を経て、ようやく今……。
私の目から、熱いものがこぼれ落ちた。
愛しい人が目の前にいる、その喜び。
もう二度と、別れたりなんかしない。
「私、シェイファー・ストックウェルはレイザラッド王国へ行き、ガイア様と結婚します!」
私は周りに宣言するように声を上げた。
ざわめく会場、それに落胆している国王陛下。
ガイアと一緒にいられるのなら、どんな地位だって必要ない。
そう思った瞬間、私はガイアに抱きしめられた。
そして──
「シェイファー……愛している。もう二度と離れない」
優しく唇を奪われた。
唖然としていた周りは、それでもホッと息を吐くようにパラパラと拍手が始まって。
やがて、大きな歓声へと変わっていった。
***
「シェイファー姉様、見て! すごいわ……! どこを見ても、私と同じリザード族だらけ!」
ペトゥララが子どもらしく大はしゃぎしている。
やっぱり、同族がいるって嬉しいのね。ララは生まれて初めて同族を見たから、なおさらなのだろうけど。
私も初めてレイザラッド王国に入った。
昔は〝枯れた大地〟と呼ばれていたのが嘘のように、緑溢れた活気のある街になっている。
「ようこそ、レイザラッド王国へ」
先に帰都していたガイアが迎えてくれた。
会うのは一週間ぶりで、少し気恥ずかし……ん?!
「会いたかった、シェイファー。この一週間、シェイファーなしで息絶えて死ぬのかと思った。元気を充填させてくれ」
ぎゅうっと抱きしめられて、頬擦りされる。
嬉しいけれど、恥ずかしい……っ
「シェイファー姉様、その方が姉様の婚約者の王子様?!」
「ええ、そ、んぷっ」
舌でチロチロと唇を舐めるのはやめてもらっても?!
リザード族の舌って、少し長いくらいで、人とそんなに変わらないのよね。
じゃなくて! 子どもが見てる……!
「わぁ、舌でチロチロしてもいいの?!」
あああ、子ども特有の無邪気な質問ッ!!
「ああ、親しい間柄なら構わない。でも基本は手や腕だけだ。顔をしていいのは、婚約者か夫婦に限られる」
そうなの!?
「私、ずっとシェイファー姉様にチロチロしたかったんだ。でも、人がそうしているのを見たことがなくて……私って変なのかと思ってた」
「これはリザード族の習性で、挨拶のようなものだ。変ではないから気に病む必要もない。ここでは気軽にするといい」
「わぁい! じゃあ、チロチロするね!」
「はうん?!」
ペトゥララに腕をチロチロ、ガイアには頬や唇をチロチロされて……ダブルチロチロ!!
いつまで続くの、このチロチロプレイ!
「あ、は、もう……っ」
「すまない、シェイファーが可愛すぎて夢中になってしまった」
「私も満足ー! またさせてね、シェイファー姉様!」
もう、もう、二人とも大好きだから構わないのだけど……!
体力が持つかしら……?
私たちはガイアに案内されて、レイザラッド城に入った。
城と言っても、広くて四角い平家という感じのところだったけれど、中に入るとひんやりして気持ちいい。
そこでレッド国王陛下にお会いすることになった。でも現れたのは、フランクなおじいちゃんで……
って、この方が国王陛下なの?!
「はっはっは、驚いたかのう? わしら王族は、普段着飾ったりせずに庶民と同じ服、同じものを食べて生きておる。市民目線の感覚が必要じゃからな。着飾るのは、他国に行く時だけじゃわい」
平民と同じ服を着ているのは、そういうことだったのね……
でもこういうところも、とっても楽しくて好きだわ。
「シェイファー、君の話は昔からガイアに聞いとるよ。第一王子になるために頑張っておったからな」
「第一王子になるために……?」
私は首を傾げた。王子には……なろうとしてなれるものなの?
疑問が顔に出てしまったのか、レッド陛下はニヤニヤと教えてくれた。
「この国は、世襲ではないのじゃよ。一番強くて優秀なものが第一王子となり、国を治めていく。世襲制なんぞ、良いことはなにもないからの」
それはきっと、ハルヴァン王国で学んだことなんだろう。
世襲制も良いところはあるけれど、それはこの国にはそぐわなかった。だからこんな方法を選んだのね。
「ガイアはどうして第一王子になろうと思ったの?」
「それは、シェイファーを娶りたかったからに決まっている」
「え?」
「シェイファーは人族の中でも高貴な方だとわかっていたからな。人族に認めさせるには、俺自身が釣り合う身分だとわからせるしかなかった」
「ガイア……私のために……?」
嬉しさが溢れる。
文も武も、どれだけの努力をしてくれたというのだろう。
私との、約束のために。
あの、でも、ちょっと、国王陛下の前で耳をチロチロするのはやめて……!
こらっ、すかさずララまで私の腕をチロチロするんじゃないの!!
「はっはっは、ラブラブじゃのう! よいよい、仲良きことは美しきかな! シェイファーにはいずれこの国の王妃となる身として、色々と力を貸してもらいたい!」
「は、はい、それはもう……あふっ」
「それじゃあレッド、またな」
国王陛下をレッド呼び!? しかもチロチロしながら!
本当にフランクな王国なのね……価値観の違いって面白いわ。
私はチロチロされながらお礼を言って出てくると、急にガイアは真面目な顔になってチロチロをやめた。
いえ、元々真面目な顔をしながら舐められてた気がするけれど。
「さて、今から家に帰る前に、寄りたいところがある」
「わぁい、今度はどこー?!」
無邪気に喜ぶララ。
私は、ハルヴァンで先に帰るガイアに頼んでいたことがあった。きっとそれだわ。
「見つかったの?」
「ああ」
「なにが、なにがー!?」
「来ればわかるよ」
ガイアはそう言って、ララの手を繋いであげてくれた。
ああ、心臓がドキドキする。ララは、一体どんな反応をするのかしら……。
無邪気にお店だなんだと喜びながら歩くララを見て、私は一歩進むたびに胸が痛くなった。
「ここだ」
ガイアの目の前には、この国では一般的であろう大きさの、小さな四角い家。
ノックをしたガイアは、その扉の前で待っている。私は家を見上げるララの背中をそっとさすった。
「ここは……誰のお家なの、ガイアお兄ちゃん」
「ペトゥララ、君のお母さんが住んでいる家だ」
「……え?」
「君の母親は、この国に入る際にハルヴァンの憲兵に見つかり、右足を失った。尻尾と左足でなんとか歩行はできるが、早くは歩けない」
一度にたくさんの情報を詰められたララは、脳の処理が追いつかないというようにぼうっとしている。
私は、もっと早くララの母親を探し出してあげたいと思っていた。
あんな、傷つけられるだけの国でいるよりはよっぽどいいと思ったから。
でもララ自身は積極的じゃなかったし、母親の名前を聞いていなかった私には、レイザラッドで人探しなんて不可能だった。もし亡くなっていたら、ララを傷つけてしまうんじゃないかという思いもあった。
ガイアなら彼女の情報を手に入れられるかも……と思って頼んでみたのだけど。
「ララのお母さんのお名前は、なんとおっしゃるの?」
「イザルルだ」
ずっと聞いておけばよかったと後悔し続けた、ララの母親の名前。
ようやく知ることができたわ。
その名を胸に刻みつけていると、ガチャリとドアノブが回った。
「遅くなってすみません。どちら様……」
澄んだ優しい声に、ララの肩がびくりと動く。
「先日伺ったガイアだ。あなたの娘さんを連れてきた」
そう言ってガイアは、イザルルさんにララが見えるように移動した。
イザルルさんはララを見た瞬間、息を止めるようにして涙を溜めている。
「ペトゥララ……?」
「……うん……」
ララが肯定した瞬間、ぶわりと溢れるイザルルさんの涙。
だけど伸ばした手は、遠慮がちに戻される。
「ごめんなさいね……すぐに迎えに行こうと思っていたのに……っ」
言葉を詰まらせるイザルルさん。
片足を失っていなくても、ハルヴァン王国はリザードへのあたりが厳しくなっていたから、うちまでは辿り着けなかっただろうと思う。
「シェイファー姉様……ほ、本当に私のお母さんなの……?」
隣にいたララが、不安そうに私の服を引っ張って見上げてきた。
間違いなく、ペトゥララを私に頼んでいったのは、この女性。私はララに向かって、こくりと頷いてあげる。
するとララは、イザルルさんの顔に視線を移した瞬間、ポロポロと涙を流し始めた。
「お、おかあ、さん……っ」
「ペトゥララ……!」
ララが母と呼ぶと同時に、イザルルさんが我慢しきれなくなったようにララを包み込む。
「ペトゥララ……ペトゥララ……! 今までつらかったでしょう……迎えに行けなくて、本当にごめんなさい……!」
「ううん、大丈夫……私、姉様のおかげで幸せに暮らしてたから……っ」
ララの、母親を慕う涙。
やっぱりララは、実の母親のことを恋しく思っていたのね……
二人が会えて、本当によかった──
ひとしきり泣き終えて話し終えたところで、ガイアが「そろそろ行こうか」と帰る姿勢を見せた。
「ペトゥララ、いつでも遊びにいらっしゃいね」
「お母さん……」
イザルルの言葉に、ララは意を決したように私を見る。
「シェイファー姉様……私、お母さんとここで暮らしたい……! お母さんの、足になりたいの!」
ずくん、と心臓が重くなる。
どちらと暮らすかは、ララが決めることだと思ってた。
私と暮らしたいと言えばもちろん受け入れるつもりだったし、母親の方がいいと言えばそうしなさいと笑顔で言うつもりだった。
──ちゃんと、笑いなさい、私!
私はぐっとなにかを飲み込むと、人生最高の演技でララに微笑んで見せる。
「ええ、もちろん。母娘なんだもの、それがいいわ」
「いいのですか、シェイファーさん……!」
「ララが望んでいることですもの、当然です」
「ありがとうございます!」
イザルルさんは信じられないといった様子で喜んでいる。ララも嬉しそう。
……これでよかったんだわ。あるべきものが、あるべきところに戻っただけ。
私とガイアは、ララを置いて二人だけで家を出た。
いつも隣にいるはずの、かわいいララがいない。
あの子の家は、私と同じ家じゃなくなるんだわ……。
そう思うと、ララの前では我慢していた涙が溢れ出してきた。
「シェイファー」
「う……っ、ごめ……なさい……」
「家まで急ごう」
そう言ってガイアは私を抱き上げて、家まで連れて行ってくれた。
今日からはここが私の家。ガイアはいるけど……ララはいない家。
「シェイファー、ここでは我慢しなくていい。言いたいことがあるならぶちまけてしまえ」
ガイアが私の気持ちを外に出そうとしてくれる。婚約破棄の時だってそうだった。
彼の前では、本音を言ってもいいんだわ。
私は溢れ出る気持ちを言葉に紡いだ。
「さみしいの……ララが……ララと一緒に暮らせなくて……!」
「ああ」
ガイアは私の話を否定せず聞いてくれる。その安心感で、私は心の奥底に押し込めた感情を一気に爆発させた。
「ララは、あの子は、生まれた時から私が面倒を見てきたのよ! 生まれたてなんて、なにをどうすればいいのかわからなくて! でもリザード族は周りにいないから、どう育てていいのかも聞けなくて手探りだった! 私だってあの時八歳だったのよ!! 死なせてなるものかって、毎日必死で……!!」
「そうか……がんばったんだな」
ガイアがぎゅっと抱きしめてくれる。涙と想いが、ボロボロと溢れてくる。
ララが熱を出しては寝ずに看病をした。笑ってくれるたび、頬にキスをした。
立った、歩いた、しゃべった、そのひとつひとつが本当に嬉しくて幸せだった。
「でも、ララはリザード族であることで、何度も何度も言葉の暴力を受けていたの……私は、ララを守りきれなかった……たくさん傷つけて……母親代わりすら失格なのよ!」
「そんなことはない、ペトゥララを見ていればわかる。シェイファーから、たくさんの愛情を受けて育ったのだということは」
「う、ひっく……んく……」
「シェイファー」
「私が……ひっく、選ばれなかったことが……か、悲しいの……っ」
心の叫びを吐露すると、ガイアは私のこめかみにキスをしてくれる。
ああ、でも全部吐き出してスッキリした。
私はどこかで、イザルルさんよりも私の方が、ペトゥララへの愛情が優っていると傲っていたんだわ。
愛する我が子を置いていかなければならなかった悔しさ、探しに行きたくてもいけなかった悲しさ……それらと私の愛情は、比べられるものじゃなかったっていうのに。
「……落ち着いたか?」
「ええ、ごめんなさい……もう大丈夫」
そう言うと、ガイアは〝よしよし〟とでもいうように、私の頭をぽんぽんと撫でてくれる。すると私はようやくホッとして、ガイアから離れることができた。
よく見ると、必要最低限の物しか置いてない、シンプルなお部屋。
離れている間にガイアはお茶を用意して、カップを渡してくれた。
ガイアはしゃべるタイプじゃないけど、こうして見守ってくれるところは昔と変わらない。
「ペトゥララとは同じ町に住んでいるんだ。いつでも会えるし、きっとあの子は会いにくる。シェイファーのことが、大好きだからな」
「……そうね。ふふ」
〝姉様!〟と言いながら元気に家に飛び込んでくるララの姿が、容易に想像できた。
私はララが大好きで、ララも私を大好きでいてくれる。これはずっと変わらないわ。
そこに思考がたどり着くと、驚くほどに悲しかった気持ちが抜けていた。
温かいお茶が、心を温めてくれる。
「ありがとう、ガイア」
「俺は、なにも?」
私は目の前の愛しい人に笑みを向けた。
やっぱり、昔からこの人が大好き。
常に安心感を与えてくれる、ガイアが。
「私の初恋が、あなたでよかった」
「俺の初恋もシェイファーだ」
「本当に?」
「本当だ」
お茶を飲み終えたガイアが、私のそばに来て……
「ひゃん?!」
「かわいいな、シェイファーは」
耳を、耳をチロチロ……!
もう、本当に毎回いきなりすぎるわ……!
「大好きだ。早くなにもかもを手に入れたい」
なにもかも? それって……もしかして、あのこと?
嬉しいけれど、心の準備がまったくできていなくて、心臓がばくばく音を立てる。
「あの、でも結婚もまだだし……」
「そんな人の作ったシステムなんか、ここでは気にしなくていい。けど、心が決まらないなら待つ」
「んんっ」
そんな、チロチロしながら言われても、説得力が……!
「好きだ、シェイファー。愛してる」
「あ、私も……」
「だったら、俺にもしてくれないか……?」
ガイアの切なそうな顔。
そうだわ、顔にチロチロするのは婚約者や夫婦の特権……つまり、単なる挨拶ではなくて愛情表現ということ。
私がされるばかりじゃ、ガイアが不安になるのも当然よね。
私は自分からガイアの頬に近づいて、舌を……
……
…………
……………
え、無理ッッ!!!!
ハードル高すぎじゃない?! なんなのチロチロって!!
「……して、くれないんだな」
待って、すっごく悲しそうな顔してる。
落ち込ませてしまったけれど、チロチロは……慣れるまで、やれそうにないのよ。文化の違い。
「あの、それはまだ今の私には無理だけど……キスなら……」
キスも自分からするだなんて恥ずかしいけど、チロチロよりはまだできるはず。
喜んでくれるかと思ったら、ガイアは目を広げて驚いている。え、どうして?
「キスをするだなんて、シェイファーはエッチだな」
真顔で言われた!
いえ、ガイアしてたわよね?!
ハルヴァン王国で、各国の主要が見ている中で!!
というか、チロチロの方がよっぽどエッチだと思うのだけど?! 価値観!!
「し、しない方がいい?」
「いや、されたい」
意外と欲望に忠実なのね、ガイアって……
うう、恥ずかしいけれど……
「じゃあ……」
正面から見ると、ガイアの嬉しそうな顔が目に入る。
「す、するわね?」
「ああ」
「は、恥ずかしいから、目を瞑ってくれる?」
「エッチだな」
「も、もう、違うったら!」
ガイアはクスクス笑いながらも目を瞑ってくれた。
私はその唇の上に、そっと自分の唇を重ねる。
すべすべしてて、柔らかい。
秒にも満たない、一瞬の触れ合い。
だけど、脳は痺れて溶けてしまいそうになる。
ガイアは輝く金色の虹彩と黒く美しい瞳で、嬉しそうに笑っていた。
異種族同士でも、お互いに文化を理解しようという気持ちさえあれば、きっとうまくやっていける。
私は、ガイアの本気のチロチロを受け入れながら、そう思った。