ある王太子の後悔
短編のつもりで書いていたら予想以上に長くなったので分けました。
誤字報告ありがとうございます。
私には幼い頃からの婚約者がいた。
出会ったのはお互い5歳で場所は王宮の庭園。
彼女は5歳とは思えないぐらい礼儀作法が完璧でなおかつとても愛らしい少女だった。
王太子として生を受け、それに相応しいように教育されてきた私は婚約も結婚も王子の務めとして捉えていた。だからこれは義務。あちらも王族と婚約する事で発言力が増す、お互いの利害関係が一致した事での婚約なのだと理解していた。5歳でこの考えをしていた私はさぞ可愛くなかった事だろう。
婚約者とは今後の人生のほぼすべてを共有することになる。子供ながらにすでに決められた人生にため息が出たものだ。
「これからよろしくお願いいたします」
「……あぁ」
侯爵家長女の婚約者の名前はミーシャ・レドモンド。クリーム色の緩く波打つ髪と意志の強そうな紫色の瞳。肌は白くされど健康的で頬は薄く赤く染まりぷっくりとした唇は桜色。顔のパーツはそれぞれ最適な位置に配置され、はっきり言ってとても可愛らしい。将来とても美人になるだろうと思ったものだ。
他愛無い会話。月に一度か二度の頻度で王宮や侯爵家で婚約者としての交流を行ったが互いに愛情など湧く事もなくただ時間だけが過ぎて行った。それでも憎からず思っていたし、まだそれほど時間もたっていないのだから今後ゆっくりと愛を育む、国を背負う者同士絆を深める事を目標に交流を深めていた。
婚約から3年。ある時いつものように侯爵家に赴くと見慣れない女の子がいた。
「初めまして! ミーシャお姉様の妹のアイシャです!」
いつものように応接間で待っているとやって来たのは赤髪の少女。礼儀もマナーも全てがなっていないこの少女に不快感が押し寄せた。慌てて止めに入る使用人達にもここまで来る前に止めろと思ったものだ。というか口に出した。私の護衛としてついていた騎士が私と少女の間に当然入ったが、目を吊り上げ睨みつける始末。
「どきなさい! 騎士風情が侯爵令嬢のわたしの邪魔をするんじゃないわよ!!」
同じ年か2、3歳下くらいの少女に凄まれたところで騎士が臆す事もない。淡々と己の職務に務める騎士に目の前の少女は更に声を上げ、それでも引かないと悟るとだんだん目に涙を浮かべついには大声で泣きだしてしまった。……なんだこれは。
侯爵家の二番目の令嬢の話など聞いたこともない。それに令嬢ならもっとお淑やかに育てられるものだろう。ミーシャがそうなように。私はこの時初めて見る生物に出会ったような心境だった。同じ生物だとは思えなかったのだ。
大声で泣き続ける赤髪の少女を前に固まっていると漸くミーシャがやって来た。
彼女もこの状況に困惑しつつ、赤髪の少女を別室に移動させるよう指示を出す。
これで静かになる、そう思ったのだが。
「ひどい!! 私を除け者にするなんて!!」
「アイシャ、落ち着きなさい」
「ひどいわ!! お姉様のいじわる!! わあぁぁぁん!!」
そう言って部屋から出て行ってしまった。残された私もミーシャも茫然とするしかなかった。
その後ミーシャはアイシャの無礼を謝罪し頭を下げてきた。
私はこの時正直にミーシャを含む侯爵家の心証が数段悪くなった。王太子の婚約者として自覚があるのか。あのような少女一つ制御できず、王太子妃、王妃が務まるのか。
酷く腹立たしく、その日は茶を飲まずに帰って来た。翌日侯爵から謝罪があったが怒りと失望のあまり聞く耳を持たず追い返した。
この時侯爵の言葉に耳を傾けていたら。……そう思わずにはいられない。
あの日をきっかけに私はミーシャに対してそっけない態度を取るようになった。当時の私は王太子教育を受け、国を背負う者として配偶者となるミーシャにも自分と同レベルを求めていたのだ。それがあの日、婚約者はミーシャでいいのか、他にもっと相応しい令嬢がいるのではないか? と、そう思わずにはいられなかった。
王太子妃教育は順調に熟しているらしい。それがまた憎らしい。身内一人、しかも妹を制御出来ないくせに。何が王太子妃教育だ。
全ての非がミーシャにある訳でもないのにこの時の私はミーシャが全て悪だと決めつけていた。あのアイシャとかいう非常識な娘もきっとミーシャが甘やかしているに違いない。そう信じて疑わなかった。
これまで妹がいる事も聞いた事がなかったのに。
明らかにこれまでの態度が違う事に戸惑うミーシャだが、私が何に対して怒っているのかはわかっていない。それがまた腹立たしかった。
口数も少なくなり、ただ茶を飲むだけの時間。はじめはミーシャも自分が何か仕出かしてしまったのかと謝罪してきたが、私は取り合わなかった。何故なら何が原因なのか分かっていないのに謝ってきたからだ。とりあえず謝ろうという魂胆にさらに失望した。
さらに取り合わなくなった事でミーシャも口を噤んでただ無言で茶を啜る。この時間も無駄だ、今後は手紙のやり取りだけでいいだろう。
そう考えていたところにやって来た。
「こんにちは王子様!!」
性懲りもなくやって来たのはアイシャ。あの日泣いて喚いていた事もすっかり忘れたのか笑顔を見せてやって来た。何も悪びれる事なく私の隣に腰を下ろし、勝手に話し始める。あまりに自然な動きに咄嗟に動く事も文句を言う事も出来なかった。
ミーシャはアイシャに無礼だ、不敬だ、出て行けと言っていたがアイシャは気に留めず私に話かけてくる。相槌を打つわけでも会話が続く訳でもないが一方的に話してくるアイシャ。それを止めようとするミーシャ。
慌てるミーシャを見たのは初めてだった。いつも微笑みを絶やさずそつなくこなすミーシャ。だけどそのミーシャがあの日以来、ペースが崩されている。崩しているのはアイシャ。
私は嬉しかったのか。今ならそうだったのかもしれないと言えるが当時はそんな事思いもしなかった。見た事がなかったミーシャを見れた事。そつなく全てを熟していたミーシャが妹一人に右往左往する姿がとても新鮮で、怒ったような困ったような困惑する顔を見せた事が面白くて楽しくて、可愛いと思った。
だけどその当時の私はそれがミーシャに対する好感を理解出来ず、アイシャに手を焼く姿に苛立ったのだ。この程度、収めて見せろ。お前は私の婚約者だろう。
何と身勝手なのだろう。自分の愚かさ加減に吐き気がする。
その後は敢えてアイシャを好きにさせていた。ミーシャが柔らかく咎めるとアイシャは火が着いたように泣き部屋を出て行く。私は泣いて出て行ったアイシャを慰める為に追いかけた。ミーシャがどんな気持ちになるのかなど考えもせずに。ただ、その頃になると泣くアイシャが不憫でならなかったのだ。
ミーシャがいじめる。使用人は自分に厳しい。部屋だって本館ではなく別館だ、きっとミーシャが指図しているのだと。全てを信じた訳ではないが、こうも泣いて訴えられるとどんどんそうなのかと思う様になった。ミーシャは困惑するがアイシャを窘め、交流の場に来ても返そうとした。
婚約者同士の交流なのだからアイシャがこの場にいる事自体おかしいという事もすっかり忘れて私はミーシャに冷たい目を向け、アイシャを慰める。可哀そうに、こんな姉と一緒では休まる事もないだろうと。
本当に愚かな事だ。
悲しみを耐え、ドレスをぎゅっと握る彼女を見て自分がどれほど愚かな事をしているのか思い知れなど思っていた私は、本当に愚か者だった……
月日は経ち、私とミーシャは社交界デビューする事になった。王族主催の夜会。そこで国王に挨拶を行う事で正式にデビュー出来る。今後は一人前の貴族として社交界に顔を出し情報交換を行う。
一生に一度しかないデビュタント。
女性は特に思い入れ深いものだろう。
そんなデビュタントで私は、婚約者からの信用を、信頼を裏切った。
婚約者がいればエスコートをするのが普通であり義務だ。私も義務としてミーシャをエスコートするつもりだった。しかし。
「だれもわたしをエスコートしてくれないの……」
本当に悲しそうに、寂しそうに言うアイシャを私は哀れに思い、当日婚約者のミーシャには幼馴染で騎士を志す公爵家の三男を差し向け、自分はアイシャをエスコートした。一度きりだ。ミーシャとは今後嫌というほどエスコートする事になるのだから、今回ぐらいアイシャに譲っても怒るほどではないだろうと思って。
頼んだ公爵家の三男、クリストファー・アランはこの事に激怒。「婚約者を何だと思ってる!」「お前がエスコートしてやる理由などない」「そもそもアイシャ嬢は……」と言ったところで私も頭にきた。
「私が知らないとでも思ったか!? ミーシャを幼馴染以上で見ていた事、私が知らないとでも? 王太子の婚約者に恋慕するなど、側近としてありえないだろう!!」
「……っ」
ミーシャは美しい。
幼い頃からでも他から抜きんでていた彼女は今では美しく花咲こうとしていた。蕾から開花するまでのこの幼さと色香を纏わせ始めたミーシャに、同年代だけでなく大人からも視線を集めていたのだ。
その中にクリストファーも含まれていた。
もう一人の幼馴染で私とは従姉妹にあたる公爵家の長女アリエル・フォースターとは近々婚約をし婿入りする事になっている。これまで口に出す事も行動に出す事もなかったが、クリストファーがミーシャを想っている事くらいすぐにわかった。
これは婚約前の最後の思い出だ。婚約者である私がミーシャのエスコートを頼んでいるのだ。素直に従えば良いものを。
結局私の命令に逆らえなかったのか、最後の思い出にしたかったのか、クリストファーは頷いた。
ミーシャとアイシャは侯爵と共に登城し、入り口でミーシャはクリストファーにエスコートされアイシャは王族の控室に送られはしゃぐアイシャを窘めながら入場した。
アイシャには強請られたままに小さいながらも品のいいネックレスを贈った。アクセサリーの一つもない、買ってくれない、お姉様も貸してくれないと泣かれ、仕方なく。
アイシャの手を引き王族席から集まった貴族を見回す。父や母が目を見開き固まっていた。周囲から集まる困惑の視線。
婚約者はミーシャ・レドモンド侯爵令嬢だったのでは? 隣の女性は? あんなに近づいて、はしたない。
ざわざわと動揺が広がる舞踏会場でアイシャは涙ぐむ。
「お、お姉様が……睨んでるわ……、こわいっ」
ぎゅっと抱きついてくるアイシャ。私やミーシャの一つ下であるが年に比べて豊満な体を押し当てられ心臓が跳ねた。慌てて離れようとするも、アイシャは余計に抱きついてきて離れない。周りに助けを求めようとしても、父はため息を吐き知らんふり。母は鬼の形相をひた隠し、扇子が折れそうな程強く握っている。拙い。非常に拙い。
集まった貴族からは冷たい視線が投げかけられ、侯爵からは視線だけでも殺されそうな程睨みつけられていた。でも、そもそもアイシャは侯爵の娘だろう!? なぜこんなにも睨まれないといけないのだ!
それもこれも、ミーシャのせいだ。
ミーシャがアイシャをいじめなければ、アクセサリーを貸していたら、もっとうまくアイシャを制御していたら。
そう思うと怒りが止まらなかった。何故か止まらなかった。
気づけば周囲はしんと静まり返り、楽器隊の音楽演奏も止まっていた。
ミーシャは俯いていたが顔を上げ私と目を合わせたらさっとカーテシーを行い、会場を後にした。侯爵もそれに続いて出て行き、もう一人の幼馴染で公爵令嬢のアリエルもそれに続いた。
何があったのかわからないまま、私は騎士に控室にまで連れて行かれた。アイシャは家に帰されたらしい。クリストファーは戻ってきていたが、私を睨みつけ何も言わない。しばらくして父と母がやって来て母からは拳で殴られた。何度も、何度も。
何を口にしたのか覚えていない、ミーシャは何故帰ったのかわからない。頭に靄が掛かったようで何も覚えていないのだ。
そう正直に話せば父が教えてくれた。
要約すれば私は婚約者である私というものがありながら幼馴染のクリストファーと手を取りデビュタントに臨むなど婚約者としての自覚がない。私の誘いを断って何たる裏切りだこの悪女め。お前のような婚約者を持った事は私の人生に於いて最大の失敗だ、一生の恥だ、出て行け、顔を二度と見せるな!
そう言ったらしい。
覚えていない。そんな、王太子として品性の欠ける事……そもそもエスコートを断ったのは私の方だ。なのに……。
頭を抱え、その時の事を振り返る。靄が徐々に晴れていき、信じがたい事に私は確かにミーシャにそう叫ぶように言った。本当に、信じられない……。
翌日早朝、侯爵から婚約解消を求められた。父も昨夜の事で修復は不可能と判断され婚約解消に同意したが私は嫌だった。嫌だと、これまでミーシャは王太子妃としてずっと努力してきた、彼女より王太子妃に相応しい人間はいない、婚約解消は待ってほしい……!
土下座する勢いで懇願し、期限内にミーシャの心を解すことが出来たなら婚約の継続を検討しようと言質を取った。
期限は半年。
これまでの私の行いを考えれば半年ではとても許されることもなければ真の意味でミーシャの心を解すことも出来ないだろう。それでもしなければ婚約は解消されてしまう。それは嫌だった。何故かはわからないがきっと父に訴えたようにミーシャ以上に王太子妃に相応しい人間はいないからだ。きっとそうだ。
仕事の合間に侯爵家に通う日々が続くがついに私はミーシャと会う事すら叶わなかった。会いに行ってもアイシャが出迎え茶を飲んで勝手に話していく。ミーシャは一度も、それこそあの悪夢の夜会から一度も姿を見る事が叶わなかった。
婚約は解消された。
会う事すら出来なかった。私は、取り返しのつかない事をやってしまったのだ。
己の仕出かしを悔いながら次の婚約者の話が出始めた頃。
王家主催の夜会。
一年前にミーシャと共に迎えるはずだった。私の仕出かしのせいでミーシャは社交界デビューすることも出来ていない。
(本来ならミーシャと共にダンスを踊っていたんだろうか……)
これからの未来に目を輝かせる今年デビューした令嬢達を見ると、ミーシャの未来を奪ってしまった事への罪悪感が増す。一度きりのデビュタント。踊る事もエスコートする事も、これから先腐るほどあると思っていた私の愚かさが招いた事。自嘲するしかなかった。
王族席からただただ貴族達の様子を視界に収めるだけの時間、突如「イーデン様!!」と、私の名を呼ぶ声が舞踏会会場の入場口辺りから響いた。
その声の大きさもさることながら、聞き覚えのある声に視線を入場口に向ければそこにいたのはアイシャ。赤髪を大きく振り乱し、ドレスも乱れている。だが、その姿で驚くよりもいつも屈託なく笑っていた顔が今は憎しみに歪んでいる。睨みつけられ、目には涙を貯め、歯を食いしばりながらアイシャはこちらに向かって歩み始める。
「どうして……どうしてよ!!?」
まさに鬼の形相。異様な光景に招待された貴族達は波が引く様に道を空けていき、アイシャはその中を進み私の元に向かってくる。
錯乱したように何か叫んでいるが聞き取れない。時折喚き意味のない言葉を紡ぐ彼女はどう見ても可笑しい。まるで何かに憑りつかれているようだった。近衛騎士が守るように立ち塞がり近づく事は出来なかったが、アイシャが何を言っていたのかは理解出来た。
「婚約が解消されたなら、私が婚約者になるべきよ! 私が婚約者なの!! イーデン様の婚約者はこの私!! ミーシャなんかじゃない!!」
「……婚約は解消した。だが、私の婚約者はお前ではない」
取り乱し、私が婚約者だと言っているのかと思えばそうでもない。ミーシャの婚約が解消されたら妹の私が婚約者になるのは当たり前なのだ。家を替えるより人を替える方が楽だ、なら私が婚約者だ!
アイシャの言い分はわからなくはないが、婚約解消の遠因にもなった相手を新たな婚約者に据え置くなど出来るはずがない。むしろ、新たな婚約者などいらない。ミーシャがいい。そう、あの日に気づいていれば……
『婚約は解消……。契約はすでに成立していますねぇ』
クックックッと笑う男の声。艶のあるその声がどこからか聞こえたと思ったら、私とアイシャの間に突然男が現れた。
全身を黒の衣装で包み髪の色まで黒だったが、瞳だけは燃えるように紅い。非常に整った顔立ちに均整の取れた身体。身長も高くどこか艶やかな声。
多くの者がその男に釘付けとなる。突然現れた不審な男。魔術師による魔術制限が掛かる中、この男は転移してきたらしい。
『申し訳ありません王太子殿下。お邪魔するつもりはなったのですが、私としましても報酬を受け取らない訳にはいきませんので……』
頭に響き様な独特な波長なのか男の声は思考を鈍らせる。
『婚約は無事に解消されている。なら、貴女には対価を支払って貰いますよ……』
「ひぃっ!!」
一瞬にしてアイシャの首を右手で掴み高く持ち上げる。足が地から離れ呼吸が苦しいのだろう、足をジタバタさせ抵抗する。
何を……! 情がある訳でもないが目の前で幼い頃からの知り合いが突如訳の分からない男に首を掴まれ持ち上げられたら誰でも驚くだろう。仮に知り合いでなくても驚くくらいはする筈だ。
苦しむアイシャを助けようと近衛に向かってアイシャを助けろと命令するが、誰一人として動かない。何故だ、令嬢が殺されかけているんだぞ!?
『クククッ! ただの初歩的な幻覚です。貴方にこの娘に向ける情が無ければ、貴方が見たような幻に囚われる事はありませんでしたが……。もう元婚約者の顔などお忘れのようですね?』
……は?
どういうことだ?
「イーデン様!! やっぱり私を想って下さっていたのね!! 私、信じていました!!」
ぽすんっと胸に何かが飛び込んでくる感覚。これは、知ってる。この、柔らかさ、香り、温もり……
「……アイ、シャ?」
「あぁ! イーデン!!」
何故?
だって、アイシャは、今、
『幻覚ですよ。貴方が見たのは私に殺されそうになったこの娘……。しかし、実際は元婚約者殿が私の手に囚われていたのです。……あなたの中で、元婚約者殿はもう過去の人。二度と一緒に成れないとわかっているからこそ、このような幻覚に惑わされたのです』
耳元で囁かれ驚いて飛び退くと、男の腕の中にあるのは会いたくてたまらなかった元婚約者……
「ミ、……シャ……?」
何故、ここに?
何故、そんなに虚ろな目を?
何故、泣いている?
『契約は成立。今度こそ、報酬を頂きますよ』
「えっ? ちょ、待ってよ!! まだ婚約してない、結婚してないじゃない!!」
『あなたの願いは〝王太子イーデンとその婚約者ミーシャの婚約解消。未練を断ち切れ〟。半年前にすでに婚約は解消され、未練も今、断ち切れました。報酬を頂きましょう』
そう言って男はアイシャに向かって手をかざす。アイシャは「まだ結婚してない、幸せになってない、こんなの話が違う!」 など喚いているがこっちは意味が解らない。男は掌をアイシャに向け、軽く握る仕草を行ったと同時にアイシャは崩れ落ちた。
『悪魔との契約は絶対です。あなたの願いは先の二点。その他は貴女の妄想に過ぎませんよ』
男の手にはさっきまでなかった小さな玉が握られていた。黒ずんだ赤と言えばいいのか、とにかくあまり綺麗とは言い難い色をしているその玉を男は口に放り込む。
ゴクッ
喉を鳴らして飲み込んだ後、はぁーと息を吐いた。
『不味い。これほど不味い人間も久しぶりです……。あぁ、折角こちらに来れたんですから少し食事をしていきましょうか』
「っ貴様、悪魔か……!!」
「「「!!」」」
自分でもさっき言っていた。『悪魔との契約』と。契約者はアイシャだった? だから、魂をこの悪魔に食われたというのか!? それに、契約とは……
『契約は先ほど申し上げた通り。婚約の解消と未練を断ち切る事。貴方の未練は実は半年前には切れていたんですが、こちらのお嬢さんの未練が切れていなかったのでこのような形を取らせて頂きました。流石は王太子。切り替えの早さは並みじゃない』
未練……?
私じゃなく、ミーシャの?
でも、一度も会おうとしなかったじゃないか。
『これまでの努力が水の泡となったのです。簡単に会ってしまってはまた同じ過ちをあなたはするでしょう? だから少し意地になっていたのもありますが……解消する方が良いと思った原因は貴方があの女に厳しく当たらなかったせいでもあります』
「……は?」
『ふふっ後はご自分でお考え下さい。……それより』
男はミーシャに向き直り、上から下までまるで品定めをするかのように凝視する。その眼が怪しく光り嫌な予感が走る。
『やはり、いいっ! 貴女の魂、先ほどの女とは比べようもない程の輝き! だけど苦悩するその魂は輝きの中に影を落としいいスパイスになっていますっ! 嗚呼! この魂、気に入りました!』
男が恍惚とした表情でミーシャの顔を覗き込み
首筋に嚙みついた。
容赦なく噛まれ皮膚を裂いた牙は白く、流れ出る紅い血に染まる。零れ落ちた血がミーシャの白い肌を伝い流れ、勿体ないとばかりに男の舌が零れた血すら舐めとる。赤い舌が肌を這う。白い肌は青白くなり、血色が悪くなっていく。そして。
今度は自分の手首を噛んだ男は流れ出る血を口に含み、ミーシャに。
ミーシャに口移しで男の血を飲ませたのだ。口の端から飲み切れなかった血が零れる。異様な光景であるのに、この場にいる誰一人として止める事が出来なかった。食い入るように目の前の光景を見つめ、息を呑む。
ミーシャの唇。
あのぷっくりとした桜色の唇に、今、口付けている男は、
私じゃ、ない……
「っ、き、さまぁぁぁ!!!」
男に向かって腰に差していた剣を向ける。殺すつもりで。悪魔だ。こいつは悪魔。アイシャを殺した悪魔だ。だから、殺してもいい。ミーシャの唇を奪ったこの男を
「殺してやる!!」
ガキィィィン!!
鉄と鉄がぶつかるような音。だが、男は動じない。防御もしていないし、武器を手にしている訳でもない。なら、一体どうして止められた?
「……ミーシャ?」
「うっ……ぐ、ぁ」
苦し気な声を出すミーシャ。素手で剣を止めた事には目もくれず、苦しむミーシャを心配した。
そこへ残酷な言葉が囁かれた。
『さぁ。もっと欲しいでしょう? なら、たくさんお食べなさい。ここには貴方の餌がたくさんありますよ』
その言葉に顔を上げたミーシャ。一年ぶりのミーシャ。
意志の強そうな紫の瞳。
今は真っ赤に染まってる。
『お゙ぉあぁっぁあぁあぁがあぁっ!!!』
まるで獣のような咆哮。人から出るようなものじゃない。
肉体の変化が始まった。牙が生え、頭には山羊の角のようなものが生えてきた。爪も伸び、筋肉が膨張し、ドレスが破ける。
ミーシャは、あの美しかったミーシャが、今はもう、その面影を残さない。
人々は悲鳴を上げ、我先にと扉に向かう。逃げる、腰が抜ける、失神、錯乱。夜会は大混乱に陥った。喚き泣きだす人間がいる中、意を決した声が耳に届いた。
「ミーシャ嬢の討伐を。……もう、人には戻れまい」
「! 父上!!?」
「騎士団長、魔術師長。酷な事を頼むが……あの子を楽にしてあげてくれ」
「まって、待ってください!! 父上! 騎士団長! 魔術師長!!」
「「御意。陛下のお心のままに」」
いくら懇願しても誰も聞いてくれない。まるで私などいないかのようにミーシャ討伐の決定が下った。
「姿形に惑わされるな。もう、我々の知るミーシャ嬢はいない。飢えた魔物だ。人の味を覚える前に滅しなければならない」
魔術師団長がミーシャの周りに結界を張り外に出さないようにする。そうして結界内で炎で焼くなり心臓を貫くなりしてとどめを刺すつもりなのだろう。
あっさり囚われたミーシャに、されど油断することなく魔術師団長は結界内でミーシャの全身を炎で焼きつくさんとする。
『ぎゃあぁぇあぁぁぁぁがぁ!!』
身体が焼ける苦しみにミーシャは絶叫を上げる。聞いていられなかった。苦しみから逃れる為か結界内で動き回り体に纏わりついた炎から逃れようとしている。けれど炎から逃れる事など出来るはずもなく、ミーシャは倒れ込んだ。
焼け爛れた肌が黒く炭のようになっている姿をどうしてミーシャだと思う事が出来るだろう。もう生きてはいまい、そう思って近づこうとする私を止めたのは騎士団長。魔物の生命力を甘く見てはいけない。信じられないがあんなになっても息がある。
止めを刺そうとする騎士団長は剣をミーシャの心臓に向かって突き刺そうとする。だが、私はここで再度父に懇願する。魔術師団長にも騎士団長にも。ミーシャを殺さないでくれ、悪いのは私だ、罰なら受けるだからミーシャを殺さないで下さい!!
そこへミーシャの父がやって来た。変わり果てたミーシャと眠るように死んでいるアイシャを見て、侯爵の憎悪が全て私に向いた。
私のせいで娘二人をこんな目に遭わせてしまったのだ、言い訳など出来るはずもない。どれだけ殴ってくれてもいい。何なら命だって差し出す。だから、
「ミーシャを……殺さないで……ミーシャが、好きなんだ……愛してるんだ、ミーシャ……」
こうなるまで自分の気持ちに気づかないなんて……。何て馬鹿なんだ……!
今になって漸くミーシャを好きだった事を自覚した私は、これまでの行いがどれだけ酷かったのか、何故あんな行動をしていたのか後悔するばかりだ。
だけどそんな願いが聞き入れられるはずもなく、変わり果てたミーシャを見て侯爵は固く目を閉じた後ゆっくりと目を開く。父の顔を捨てた侯爵の顔は貴族としての顔をしていた。
「……討伐を、お願いします」
「……あぁ。わかった」
騎士団長と魔術師団長は侯爵とは旧知の仲。どれだけの苦悩があってこの決断をしたのか、二人は察し約束を交わしている。
それを茫然と眺める事しか出来ない。私はミーシャを殺さないで欲しいと訴えているのに、皆は討伐しようとしている。そもそも討伐って言い方、ミーシャがまるで魔物みたいじゃないか。
ミーシャは魔物なんかじゃない! 変な呼び方をするな!
あの男だ、あの男が原因だ。ミーシャにあいつの血なんか飲ませたから……!
倒すべきはあの悪魔なんだ!
されど私の言葉など通じるはずもなく、ミーシャは魔物として討伐されようとしている。
魔術師、騎士が総出でミーシャを追い詰めるが、結界を破壊し会場から逃亡。向かってくる騎士を投げ飛ばしあの鋭い爪で切り裂き逃げるミーシャ。魔術師も応戦し、数で押すが元が王太子の婚約者であったミーシャと知る人間ばかり。わかっていても剣を向けることも魔術を向けることも躊躇うのも仕方ない。
ミーシャは騎士団にもよく出向いて労い、魔術師団にも同様にしていたので顔見知りが多いのだろう。特に魔術師団は騎士団とは違い貴族女性からは嫌厭されがちで差し入れや労いは珍しい。そこに王太子の婚約者が定期的に訪れるなんて喜ばない訳がなかった。
私がアイシャと生産性のない会話をしている間、ミーシャは王太子の婚約者として根回しと顔を売り込んでいたのだ。だからこそ、一年前の夜会以来騎士と魔術師からはより厳しい目で見られていたのだ。
そんな献身的な婚約者、健気な婚約者が、目の前で魔物となって暴れている。躊躇ってはいけないとはわかっていても、体が動かない。討伐などしたくない。出来れば元に戻してあげたい……! だけどそれも無理なのもわかっている。だから、だからこそ!
「ミーシャ・レドモンド侯爵令嬢! お覚悟!!」
「! ぁっ……」
体当たりするようにして剣をミーシャの薄い腹に突き刺したのはクリストファー。
半年前正式に騎士として採用され今日は王宮警備についていた。あの日以来、側近から外れ騎士として生きてきたクリストファーは少し大きくなっていた。
「っミーシャ、すまないっ……すまない、あの日……私がもっとしっかり殿下を止めていれば……っ」
「ぐぅううっ」
涙を流しながら更に剣を押し込めるクリストファー。その様子を私は震えながら見ているしかなかった。そうだ、私の過ちがこの状況を作り出したのだ。あの悪魔が言う契約。ミーシャとの婚約解消。記憶に靄が掛かっていた事、怒りを抑えられなかった事。全てあの悪魔が、アイシャが願った事だったとしたら。
「っぁああっ!! み、ミーシャ、ミーシャァァァ!!!」
ごぼっと吐き出した紅い血。
クリストファーはそれでも暴れ続けるミーシャを放すまいと更に剣を押し込める。肉が切れ、骨が断たれる嫌な音が生々しい。耳を覆い、目を背けたい気持ちを抑えミーシャの最後の瞬間まで見届けなければならない。私の責任なのだから。
「う、ぐぅぅあぁぁぁ!!」
「クッ!」
渾身の力を振り絞ったミーシャはクリストファーの剣を根本から叩き折り、投げ飛ばした。投げ飛ばされたクリストファーは壁に叩きつけられ倒れ込む。そしてミーシャは、憎い私を食い殺そうと跳躍し襲い掛かる。魔術師の結界も攻撃も間に合わず、私はミーシャに馬乗りにされその鋭い牙で嚙み殺される寸前。
「う、うぅぅ~……」
「ミー、シャ……?」
見上げれば眼前に涙を貯めたミーシャの顔。苦しそうに、顔を歪め何かに耐える。涙をぽろぽろ流す美しかったミーシャ。
「っ……ごめ、……ごめんっごめんミーシャっごめん……!」
初めて謝った。王太子として、簡単に謝ってはいけないという言葉を曲解していた。自分に非があるのなら非公式の場でなら謝っても良かったのではないか。アイシャを使ってミーシャの困惑した顔を見るのを楽しんでいたが、それもだんだん悪い事をしている事に気づいた。でも謝る事は出来ない。
そうしてなぁなぁで来たつけがコレだ。私の行いがミーシャがその代償を払う事になるなんて、なんて理不尽な事だ。侯爵にも会わせる顔がない。
「ミーシャ、ごめんっ! ごめん、ミーシャ」
ミーシャとごめんとそれを馬鹿みたいに繰り返して。そんなのでミーシャが元に戻る事もやり直せるはずもないのに。
「ごめん、ミーシャ……。ごめんっ……好きでごめんっ」
「……」
気づけば私も泣き、視界が涙で歪んでよく見えなかった。やっと会えたミーシャなのに、一年振りに会えたのに……! もっとよく見たいのに。なのに、見えない。
「……っ」
「ミーシャ!!」
跳躍し、魔術師や騎士の間を通り抜け再びミーシャは駆け出した。姿が消え、何処に行ったのかわからないが城は結界が張られている。逃げ出そうと結界に触れればどこに居るのか特定できる。
私も探した。王太子であるなら安全な所で身を隠すべきだとはわかっているが、ここで逃げたらもう二度とミーシャと会えない。それはわかった。
「ミーシャ!!」
ミーシャが見つかったのは東の塔。そこで、ただ立って空を見ていた。
朝焼けの空がさらに明るくなる。
シュゥゥゥゥゥ
日の光は魔物の天敵。光を浴びればその身は炎に包まれ何も残らない。
「ま、まって、待って!! ミーシャ!! ひ、日陰に!! っ!」
ミーシャも例外なく青い炎に包まれた。燃えていく体は再生することなく崩れていく。
やっと好きだと愛していると気づいたというのに。
『さようなら……愛していました』
燃え尽きる前、ミーシャは振り返り涙を浮かべながらもあの美しい微笑みでそう言った。
その言葉を最期に、ミーシャは消えてしまった。
その後、私は一年間の謹慎処分を受けた。表向きは婚約解消した元婚約者の喪に服す為とされた。
私の新たな婚約者になったのは従姉妹で幼馴染でクリストファーと婚約していたアリエル・フォースター公爵令嬢。気難しい彼女にはミーシャくらいしか友達と言える人間はいなかった為、彼女には随分罵られた。
婚約の話もすでにクリストファーと婚約していたしそもそも私の顔など見たくないだろう。立場上断るとは思わなかったがそれが実現すると拍子抜けした。理由を聞けば『あなたが他の女に逃げて許しを乞い、人並に幸せになる事が許せない』というものだった。
許しを乞うつもりも幸せになるつもりもないが、アリエルから見ればそう見えるんだろう。私への復讐心からだろうがその為にクリストファーとの婚約を解消したのだ。
クリストファーはその後怪我も癒え、自ら志願して辺境の地に向かった。恐らくもう二度と会うことは無いだろう。
アリエルと結婚し、子供が生まれ、孫が生まれ、私の命もあと僅か。
目を閉じればこれまでの人生が浮かんでくる。アリエルや子供達、孫達には申し訳なく思うが私が一番幸せを感じていたのは今振り返ればミーシャと婚約したばかりの数年だ。勿論結婚後も苦楽はあれど幸せだった。だがやはりあの頃だろう。
ミーシャ……
すまなかった。
私はもうすぐ逝く事になる。
どうか、私を許さないでくれ……
私のミーシャ……
愛してる。
王太子視点のお話はここまでです。
次は悪魔視点ですがほぼ蛇足です。